相撲の起源を考えるうえで、最初に確認したいのが日本最古級の歴史書である『古事記』と『日本書紀』です。
両書には、相撲につながる力比べの物語が記されています。ただし、2つの書物が描く内容は異なり、登場人物も別々です。
『古事記』に描かれた建御雷神と建御名方神の力比べ712年成立
『古事記』に登場するのは、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
この物語は、出雲の国譲り神話の一場面として描かれています。
高天原から遣わされた建御雷神が、出雲の国を治めていた大国主神に国を譲るよう求めた際、その子である建御名方神が力比べを挑みます。
両者の争いは、武力による対決という形で描かれ、最終的には建御雷神が勝利します。
この神話は、相撲の原型となる力比べの伝承として知られています。
注目したいのは、ここでの勝負が単なる娯楽ではないことです。国の支配権をめぐる神々の争いを、身体の力によって決着させるという構図には、古代社会における力比べの象徴的な意味が表れています。
『日本書紀』の野見宿禰と当麻蹶速の決闘720年成立
もう一つの重要な伝承が、『日本書紀』に記された野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の対決です。
物語の舞台は垂仁天皇の時代。
大和国に当麻蹶速という強者がいて、自分に敵う者はいないと豪語していました。その評判を聞いた垂仁天皇は、蹶速と勝負できる人物を探すよう命じます。
そこで出雲国から呼び寄せられたのが野見宿禰でした。
両者は天皇の前で対戦し、激しい蹴り合いの末、野見宿禰が勝利したと伝えられています。
この伝承が、相撲の起源説話として広く知られるようになりました。
日本相撲協会の解説でも、野見宿禰は相撲の神様として紹介されています。東京都墨田区には野見宿禰を祀る神社もあり、現在の大相撲との文化的なつながりを伝えています。
野見宿禰と当麻蹶速は実在したのか?ここで注意したいのが、物語に登場する人物の歴史的実在性です。
『日本書紀』は720年に完成した歴史書ですが、垂仁天皇の時代として記されている出来事を、そのまま同時代の記録とみなすことはできません。
特に、野見宿禰と当麻蹶速の勝負は、相撲の始まりを説明する伝承として理解する必要があります。
| 確認項目 | 内容 | 歴史的な位置づけ |
|---|---|---|
| 野見宿禰 | 出雲国出身と伝わる人物 | 起源説話の登場人物 |
| 当麻蹶速 | 大和国の強者 | 起源説話の登場人物 |
| 対決の時期 | 垂仁天皇7年7月7日 | 『日本書紀』の伝承上の年代 |
| 勝者 | 野見宿禰 | 伝承に記された内容 |
| 対決の意味 | 古代の力比べ | 相撲の起源を象徴する物語 |
つまり、相撲の起源を伝える物語が存在することと、その勝負が史実として確認されていることは別問題です。
この区別を理解すると、神話と歴史資料を混同せずに相撲の成り立ちを読み解けます。
【農耕儀礼としての相撲】五穀豊穣を願う神事相撲の役割

相撲の歴史を神話だけで説明できない理由の一つが、農耕儀礼との深いつながりです。
古代日本では、稲作を中心とした農業が人々の暮らしを支えていました。天候や自然環境に収穫が左右される社会では、豊作を祈り、その年の農作物の出来を占う祭りが重要な意味を持っていました。
相撲も、こうした祭祀の一つとして発展したと考えられています。
相撲で農作物の収穫を占った理由古代の神事相撲には、勝負の結果によって農作物の豊凶を占う考え方がありました。
代表的な伝承では、東西に分かれた力士の勝敗を、その地域の収穫と結びつけます。
- 東方が勝てば東国の豊作を期待する。
- 西方が勝てば西国の豊作を期待する。
- 勝負そのものを神に奉納し、五穀豊穣を祈願する。
これは、現代のスポーツのように勝敗だけを競うものとは性質が異なります。
勝負を通じて神意を占い、自然の恵みを願うという宗教的な意味があったのです。
国立国会図書館の資料を活用したジャパンサーチの相撲解説でも、相撲節会には東西の勝敗と豊作を結びつける農耕儀礼の側面があったと紹介されています。
神事相撲は現在も各地に残っている神事相撲は、古代の宮廷行事がなくなった後も、各地の祭礼に受け継がれてきました。
その代表的な例が、愛媛県今治市の大山祇神社で行われる一人相撲です。
御田植祭では、力士が目に見えない稲の精霊と相撲を取るという独特の儀式が行われます。
人間と精霊の勝負を通して、稲の成長や豊作を願う伝統です。
通常の相撲とは異なり、相手が目に見えないという点に、この儀式の宗教的な意味が表れています。
国立国会図書館の資料にも、大山祇神社の一人相撲が現在まで伝わる神事として紹介されています。
なぜ相撲は神社の祭りと結びついたのか相撲には、身体をぶつけ合う力強さだけでなく、勝負の結果を神に捧げるという性格がありました。
神前で相撲を取ることは、地域の人々が共同で祭りに参加する機会にもなります。
こうした背景から、相撲は競技としての発展と並行して、神社の祭礼文化にも根付いていきました。
現在の大相撲に見られる土俵入りや塩まきなどの儀式的な所作を理解するうえでも、古代の神事との関係は見逃せません。
【相撲の歴史を年表で整理】宮廷行事から鎌倉・戦国時代の武士相撲へ
神事としての相撲は、やがて国家的な宮廷行事へと発展します。
特に重要なのが、奈良時代から平安時代にかけて行われた相撲節会です。
地方の力自慢が都に集まり、天皇や貴族の前で勝負を披露する形式が整えられていきました。
相撲節会とは?平安時代の宮廷相撲の実態相撲節会(すまいのせちえ)は、宮廷で行われた相撲の公式行事です。
地方から選ばれた相撲人(すまいびと)が都に集められ、左右に分かれて対抗戦を行いました。
その背景には、次のような目的がありました。
1. 国家の安泰と五穀豊穣を祈願する。
2. 地方の有力な力士を集めて力量を競わせる。
3. 天皇や貴族が観覧する宮廷儀式として実施する。
4. 儀式を通して武力や身体能力を評価する。
相撲節会は単なる娯楽ではなく、国家の祭祀と政治的な儀礼を兼ねた行事だったのです。
奈良時代の734年(天平6年)7月7日には、聖武天皇が相撲を観覧した記録があります。
その後、平安時代には宮廷の年中行事として制度化され、相撲節会は重要な儀式へと成長しました。
ただし、宮廷相撲は現代の大相撲とは違い、現在のような土俵や競技規則が完成していたわけではありません。
相撲節会は1174年に終わりを迎える平安時代には、相撲節会が宮廷文化の一部として盛んに行われました。
しかし、時代が進むにつれて朝廷の政治的な影響力が弱まり、武士の勢力が拡大します。
こうした社会構造の変化とともに、宮廷中心の相撲文化も衰退していきました。
相撲節会は再興と中断を繰り返した後、1174年(承安4年)を最後に宮廷行事としての開催を終えたとされています。
鎌倉時代・戦国時代には武士の鍛錬として発展宮廷行事としての相撲が衰退する一方、武家社会では相撲が別の役割を担うようになります。
鎌倉時代には、武士が身体能力を鍛え、戦闘に役立てるための訓練として相撲を取り入れました。
相手の身体を押し、組み、倒す動作は、実戦に必要な体力やバランス感覚を養うことにもつながります。
日本相撲協会の歴史解説によると、源頼朝が相撲を観戦した記録も残されています。
さらに戦国時代には、織田信長が相撲を好み、各地から力士を集めて上覧相撲を催したと伝えられています。
信長は勝ち抜いた力士を家臣として召し抱えたともされています。
この時代の相撲には、武士の鍛錬だけでなく、武将が力士の能力を評価し、家臣団を編成するという側面もありました。
相撲の歴史を時代別に比較ここまでの歴史を整理すると、相撲が時代ごとに異なる役割を持っていたことが分かります。
参考:日本相撲協会、日本武道館、笹川スポーツ財団、ジャパンサーチなどの歴史資料。
【江戸時代に大相撲が誕生】勧進相撲が庶民の娯楽になった理由
現在の大相撲につながる興行文化が本格的に発展したのは江戸時代です。
それまでの相撲は、神事や宮廷行事、武士の鍛錬という性格が強いものでした。
しかし、江戸時代になると、相撲を職業とする力士が登場し、観客から料金を集めて興行を行う仕組みが発達します。
勧進相撲とは?寺社の修繕費を集める興行勧進相撲とは、寺院や神社の建立・修繕などに必要な資金を集めるために行われた相撲興行です。
「勧進」とは、仏教に関わる事業などのために人々から寄付を募ることを意味します。
相撲の興行で観客から料金を集め、その収益を寺社の事業に役立てる仕組みでした。
江戸時代初期には、浪人や力自慢の人々を中心とする相撲集団が興行を行い、次第に専門的な職業力士の集団へと発展していきます。
国立国会図書館の資料を基にしたジャパンサーチでも、勧進相撲が江戸時代の相撲隆盛を支えた重要な仕組みとして紹介されています。
富岡八幡宮と回向院が相撲興行の重要拠点に江戸時代の相撲興行を語るうえで、重要な場所が東京都内に残っています。
江戸勧進相撲発祥の地として知られる神社です。貞享元年(1684年)には、春と秋の勧進相撲が幕府から許可されました。
明和5年(1768年)から境内で勧進相撲興行が行われました。両国の相撲文化を語るうえで欠かせない場所です。
日本相撲協会の解説によると、江戸時代には両国の回向院で春と秋に相撲興行が開かれるようになり、力士たちは歌舞伎役者と並ぶ人気者になりました。
谷風・小野川・雷電が相撲人気を押し上げた江戸時代後期には、人気力士が登場し、相撲興行は大きな盛り上がりを見せます。
代表的な人物が次の3人です。
- : 江戸時代を代表する名力士の一人。
- : 谷風と並び、当時の相撲人気を支えた力士。
- : 圧倒的な強さで後世まで語り継がれる名力士。
寛政3年(1791年)には、江戸城内で上覧相撲が行われました。
将軍の前で力士が取組を披露するという出来事は、相撲の社会的な評価を高める象徴的な出来事でした。
江戸時代に現在の大相撲の原型が整った江戸時代の相撲は、単に力士が勝負をするだけの催しではありませんでした。
観客を集めるための興行運営、力士の序列を示す番付、専門的な稽古、土俵や勝負の規則などが整備されていきました。
特に重要なのが、相撲会所の成立です。
谷釜尋徳氏による2021年の研究論文「江戸のスポーツ産業に関する研究」では、宝暦年間(1751~1764年)に相撲会所が形成され、興行の組織化が進んだことが紹介されています。
また、江戸の庶民の経済力が高まり、娯楽にお金を使う文化が広がったことも、相撲興行の成長を後押ししました。
相撲は武士や一部の有力者だけが楽しむものから、都市の庶民が観戦する大衆娯楽へと変わっていったのです。
【相撲の語源と由来】「すまい」が「すもう」になった理由とは?
相撲の起源を理解するうえでは、競技の歴史だけでなく、言葉の由来も重要です。
現在の「すもう」という読み方は、古い日本語の「すまい」「すまひ」「すまふ」と関係しています。
「すまい」は争う、張り合うという意味日本相撲協会の解説によると、古くから使われていた大和言葉の「すまい」は、争う、争いといった意味を持っていました。
古い表記には、次のようなものがあります。
| 古い表記 | 読み方 | 意味 |
|---|---|---|
| 須埋 | すまい | 争い、争う |
| 須末比 | すまひ | 争い、力比べ |
| 須末布 | すまふ | 争う、張り合う |
これらは、相撲が古くから単なる競技名ではなく、力を競い合う行為そのものを表していたことを示しています。
なぜ「相撲」という漢字を使うのか「相撲」という漢字も、言葉の歴史を知るうえで興味深いポイントです。
日本相撲協会の解説では、中国から伝わった力比べを意味する漢字表記が、もともと存在した日本語の「すまい」に当てられたと説明されています。
そのほか、歴史上は次のような表記も使われてきました。
- 相撲
- 角力
- 角觝
- 争力
現在は「相撲」という表記が一般的ですが、明治・大正時代には「角力」や「角觝」という表記も使われていました。
昭和以降は、現在の「相撲」という表記が定着しています。
「すまい」と「すもう」のどちらが正しい語源なのかここには、少し専門的な論点があります。
語源については、「すまう(争う)」が名詞化したという考え方と、「すまひ」が音便によって「すもう」に変化したという考え方があります。
国語辞典の『精選版 日本国語大辞典』でも、歴史的な語形について複数の見方が紹介されています。
そのため、単純に一つの音変化だけで説明するのではなく、古代から中世にかけての言葉の変化として理解するのが適切です。
【プロの結論】相撲の起源を理解するために知っておきたい3つのポイント
相撲の歴史を振り返ると、現在の大相撲は一つの時代に突然生まれたものではありません。
神話、農耕儀礼、宮廷文化、武家社会、江戸の興行文化という複数の歴史的な要素が積み重なって成立しています。
特に押さえておきたいのは、次の3点です。
1. 野見宿禰と当麻蹶速の対決は起源を象徴する伝承相撲の起源として最も有名な物語ですが、伝承と史実を区別することが大切です。
『日本書紀』に記載されたことは確認できても、対決そのものを現代の歴史学で実証できたわけではありません。
2. 相撲の発展には農耕文化と神事が深く関わっている古代の相撲は、五穀豊穣を願い、収穫を占う儀礼としても行われていました。
この側面は、神社の奉納相撲や一人相撲などに受け継がれています。
3. 現在の大相撲の直接的な原型は江戸時代に整った江戸時代には職業力士、番付、相撲会所、定期興行などが発達しました。
特に勧進相撲の普及によって、相撲は大衆が楽しむ興行として確立していきます。
相撲の歴史を正しく理解する判断基準は、「神話上の起源」「史料で確認できる制度の発展」「現在につながる興行の成立」を分けて考えることです。
この3つを混同しなければ、相撲がなぜ日本の伝統文化として長く受け継がれてきたのかが見えてきます。
【相撲の起源に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:相撲の起源はいつですか?
相撲の起源を特定の年に限定することはできません。神話では『古事記』の神々の力比べや『日本書紀』の野見宿禰と当麻蹶速の対決が知られています。また、古墳時代の埴輪や須恵器からも、相撲に似た力比べが行われていたことが推測されています。
Q2:相撲を最初に取った人物は誰ですか?
起源伝承で代表的な人物は、野見宿禰と当麻蹶速です。『日本書紀』には、垂仁天皇の前で両者が対決した物語が記されています。ただし、これが歴史上最初の相撲だったと実証されているわけではありません。
Q3:古事記と日本書紀では相撲の起源が違うのですか?
それぞれ異なる力比べの物語を記しています。『古事記』では建御雷神と建御名方神、『日本書紀』では野見宿禰と当麻蹶速が登場します。どちらも相撲の原型を考えるうえで重要な伝承です。
Q4:相撲は五穀豊穣とどのような関係がありますか?
古代には、相撲の勝敗によって農作物の豊凶を占い、神に豊作を祈願する農耕儀礼がありました。こうした神事相撲の伝統は、現在の神社の奉納相撲にも受け継がれています。
Q5:相撲節会はいつからいつまで行われましたか?
奈良時代に天皇の前で相撲が行われ、平安時代には宮廷の公式行事として制度化されました。最後の開催は1174年(承安4年)とされています。
Q6:現在の大相撲はいつ成立したのですか?
現在の大相撲につながる職業相撲や興行の仕組みは、江戸時代に発展しました。勧進相撲、相撲会所、番付、定期興行などが整い、現在の大相撲の基礎が築かれました。
Q7:「相撲」の語源は何ですか?
古い大和言葉の「すまい」「すまひ」「すまふ」に由来すると考えられています。「争う」「力を競い合う」という意味があり、そこから現在の「すもう」という呼び方につながりました。
まとめ:相撲の起源は神話から江戸時代まで続く歴史の積み重ね
相撲の起源は、神々の力比べを描いた『古事記』や、野見宿禰と当麻蹶速の対決を記した『日本書紀』にまでさかのぼる伝承を持っています。
しかし、相撲の歴史は神話だけでは説明できません。
古代には五穀豊穣を願う神事として行われ、奈良・平安時代には相撲節会として宮廷文化に組み込まれました。
鎌倉・戦国時代には武士の鍛錬として発展し、江戸時代には勧進相撲によって職業力士による興行が定着します。
そして、江戸時代に整った土俵、番付、力士の序列、興行の仕組みが、現在の大相撲につながっています。
相撲は、神事であり、武芸であり、娯楽であり、競技でもある文化です。
2026年現在、土俵上で繰り広げられる一番の勝負には、千年以上にわたる日本の歴史と、人々が受け継いできた伝統が息づいています。