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玉の海正洋とは?第51代横綱の成績と北玉時代、27歳急逝の真相を徹底解説

天海 修平 天海 修平 • 更新: • 公開: • 読了約 19 分
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「玉の海」とは、第51代横綱・玉の海正洋(たまのうみ・まさひろ)を指す四股名です。1944年2月5日生まれ、愛知県蒲郡市出身。大相撲で生涯619勝305敗、幕内優勝6回という実績を残し、1970年には北の富士と同時に横綱へ昇進しました。

しかし、横綱として迎えた全盛期は長く続きませんでした。横綱在位はわずか10場所。1971年10月11日、虫垂炎の手術後に発生した右肺動脈幹血栓症により、27歳8カ月で急逝しています。北の富士との「北玉時代」が本格化しようとしていた矢先の出来事でした。

【玉の海は第51代横綱・玉の海正洋を指す?読み方と基本プロフィール】

玉の海

玉の海という名前を調べると、歴代横綱の一人として紹介される玉の海正洋にたどり着きます。日本相撲協会の歴代横綱プロフィールにも、第51代横綱として登録されています。

読み方は「たまのうみ」。フルネームは玉の海正洋(たまのうみ・まさひろ)です。漢字の表記は「玉の海」であり、以前の四股名だった「玉乃島」とは異なります。

玉の海正洋の基本情報
  • 四股名:玉の海正洋
  • 読み方:たまのうみ・まさひろ
  • 最高位:第51代横綱
  • 本名:谷口正夫
  • 生年月日:1944年2月5日
  • 没年月日:1971年10月11日
  • 出身地:愛知県蒲郡市
  • 所属部屋:二所ノ関部屋から片男波部屋へ移籍
  • 身長:177cm
  • 体重:134kg
  • 得意技:右四つ、上手投げ、吊り出し
  • 横綱在位:1970年3月場所~1971年9月場所

日本相撲協会の公式プロフィールで特に注目したいのは、所属部屋の変遷と四股名の履歴です。二所ノ関部屋から片男波部屋へ移籍し、玉乃島から玉の海へと名前を改めています。

なお、玉の海は1944年に生まれ、1971年に亡くなりました。死去した時点で27歳8カ月。相撲界でこれから長い時代を築くことが期待されていた若さでした。

【玉乃島から玉の海へ】片男波部屋で歩んだ横綱への道

玉の海の力士人生は、1959年3月場所の初土俵から始まりました。当初の四股名は玉乃島。現在知られている「玉の海」という名前になったのは、1970年の横綱昇進を機にした改名です。

二所ノ関部屋への入門と片男波部屋への移籍

玉の海は二所ノ関部屋に入門し、力士としての基礎を築きました。その後、片男波親方(元関脇・玉乃海太三郎)が独立したことに伴い、片男波部屋へ移籍します。

片男波親方の指導のもとで力を伸ばし、1964年3月場所に新入幕。1965年1月場所には小結、同年7月場所には関脇へと昇進しました。

当時の相撲界には大鵬という巨大な壁がありました。玉乃島は大鵬の胸を借りて稽古を重ね、相撲の技術と精神力を磨いていきます。大関昇進後も二所ノ関部屋へ出向いて稽古に励んだことが、日刊スポーツの人物連載でも紹介されています。

玉乃島から玉の海への改名

玉乃島が玉の海に改名したのは1970年3月場所です。1970年1月場所後、北の富士とともに横綱昇進を果たしたことがきっかけでした。

この改名には、相撲界の先輩たちとのつながりもありました。師匠の片男波親方や、師匠の師匠にあたる先代二所ノ関親方など、受け継がれてきた名前への思いが背景にあります。

「玉乃島」という四股名がすでにファンに定着していたこともあり、改名には周囲から反対意見もあったと日刊スポーツは伝えています。それでも玉の海という新しい名前で横綱人生を歩み始めました。

横綱昇進までの主な歩み
  • 1959年3月:玉乃島の四股名で初土俵。
  • 1963年9月:新十両。
  • 1964年3月:新入幕。
  • 1965年1月:新小結。
  • 1966年11月:新大関。
  • 1970年1月:北の富士とともに横綱昇進が決定。
  • 1970年3月:第51代横綱・玉の海として土俵に上がる。

大関時代には優勝を重ねながらも、すぐに横綱へ昇進できたわけではありません。大鵬をはじめとする先輩横綱との対戦で経験を積み、地力を高めた末につかんだ昇進でした。

【生涯619勝305敗・幕内優勝6回】玉の海の強さを記録から分析

玉の海の実力を語るうえで欠かせないのが、日本相撲協会が掲載する戦歴です。生涯戦歴は619勝305敗、76場所。幕内では469勝221敗、46場所という成績を残しました。

玉の海の主な成績一覧
  • 生涯戦歴:619勝305敗(76場所)
  • 幕内戦歴:469勝221敗(46場所)
  • 幕内優勝:6回
  • 序二段優勝:1回
  • 殊勲賞:4回
  • 敢闘賞:2回
  • 技能賞:0回
  • 金星:4個
  • 横綱在位:10場所

特筆すべきなのは、横綱としての成績です。専門の力士記録データでは、横綱在位10場所の成績は130勝20敗。勝率は約86.7%に達し、横綱としての優勝は4回と集計されています。

つまり、横綱として土俵に立った期間だけを見ても、非常に高い勝率を残していました。10場所という短さだけで実績を評価すると、その強さを見落としてしまいます。

玉の海の得意技と相撲の特徴

日本相撲協会が公表する得意技は、右四つ・上手投げ・吊り出しです。

右四つは、相手と組んだ際に右手を相手の左脇に差す体勢。そこから相手の上手を取って攻める相撲を得意としていました。組んでからの力強さに加え、相手の体勢を崩して投げる技術も持ち合わせていたのです。

また、吊り出しは相手の体を浮かせて土俵の外へ運ぶ豪快な決まり手です。177cm、134kgという体格を生かしながら、単純な重量勝負ではなく、足腰の強さと組み手の巧みさを組み合わせて勝負していました。

1971年7月場所の全勝優勝が示した完成度

玉の海の現役時代を象徴する成績の一つが、1971年7月場所の全勝優勝です。15日間をすべて勝ち抜き、幕内優勝6回目を達成しました。

この優勝は、結果的に玉の海にとって最後の優勝となります。27歳という年齢を考えれば、さらなる優勝記録の更新や長期政権が期待される時期でした。

横綱在位10場所で4回の優勝を記録した事実は、彼が単に将来を期待された力士だったのではなく、すでに横綱として結果を出していたことを示しています。

【北の富士・大鵬との関係】北玉時代を生んだライバルたち

玉の海の相撲人生を理解するには、北の富士と大鵬という二人の存在が欠かせません。北の富士は同時代を築いたライバル、大鵬は横綱への道を阻んだ大きな壁でした。

北の富士との「北玉時代」とは?

1970年1月場所後、玉の海と北の富士はそろって横綱へ昇進しました。第51代横綱が玉の海、第52代横綱が北の富士です。

当時は柏戸の引退によって「柏鵬時代」が終わり、大鵬に続く新たな時代が求められていました。その中心として期待されたのが、北の富士と玉の海の二人です。

共同通信の用語解説によると、両者の取り口は対照的でした。玉の海はどっしりとした体格と右四つを生かした力強い相撲。北の富士は長身を生かしたスピード感のある左四つの相撲です。

個性の異なる二人が優勝を競い合い、横綱としての存在感を高めていく。これが「北玉時代」と呼ばれる時代の魅力でした。

両者は横綱在位中の本割で10回対戦し、北の富士が6勝4敗とリードしています。幕内通算では北の富士22勝、玉の海21勝と、ほぼ互角のライバル関係でした。

また、二人が横綱として土俵の中心にいた期間には、幕内優勝をそれぞれ4回ずつ記録しています。北玉時代は実力が拮抗した二人が互いに刺激し合う、短くも濃密な時代だったのです。

大鵬との対戦成績は?最初の勝利と長い壁

玉の海にとって、大鵬は特別な相手でした。1965年1月場所初日、新小結の玉乃島は、当時の大横綱・大鵬と初めて対戦します。

この一番は相撲界の歴史に残る取組でした。同場所から部屋別総当たり制が導入され、それまで同じ一門の力士同士では組まれなかった対戦が実現したのです。

玉乃島は大鵬に果敢に攻め込み、最後は内掛けで勝利しました。日本相撲協会の相撲博物館関連資料や日刊スポーツの連載でも取り上げられている歴史的な一番です。

しかし、その後は大鵬が大きな壁となります。日刊スポーツの対戦記録によれば、通常の本割で不戦勝と優勝決定戦を除いた成績は、玉の海の6勝21敗。最終的な対戦を不戦勝込みで集計すると7勝21敗で、優勝決定戦は別に1勝1敗です。

初顔合わせで大鵬を破った玉乃島が、その後は長く苦戦したという事実は、当時の大鵬の強さと、玉の海が乗り越えようとした課題の大きさを物語っています。

玉の海を取り巻く人物と関係性
人物・団体 玉の海との関係 主な事実・歴史的な意味
北の富士 同時代のライバル・親友 1970年に同時横綱昇進。北玉時代を築いた。
大鵬 先輩横綱・大きな壁 1965年初場所で初対戦。玉乃島が内掛けで勝利した。
片男波親方 師匠 元関脇・玉乃海太三郎。片男波部屋で玉の海を育てた。
二所ノ関部屋 最初の所属部屋 1959年の入門後、力士としての基礎を築いた。
玉ノ海梅吉 相撲界の先輩 改名をめぐる相談にも関係した人物として報道されている。

こうして見ると、玉の海の横綱人生は、北の富士との競争だけで成り立っていたわけではありません。大鵬との対戦で培った経験、片男波部屋での指導、相撲界の先輩たちとの交流が、横綱としての完成度を支えていました。

【1971年10月11日】玉の海の死因と虫垂炎手術後の急逝

玉の海の人生で最も悲劇的な出来事が、1971年10月11日の急逝です。横綱として現役を続けていた27歳の力士が、病院で突然亡くなったという知らせは、相撲界に大きな衝撃を与えました。

虫垂炎を抱えながら土俵に立ち続けた背景

日刊スポーツの2021年の追悼記事によると、玉の海は1971年の名古屋場所前に急性虫垂炎を発症していました。

横綱としての責任に加え、大鵬の引退相撲などの予定もあり、すぐに手術を受けるのではなく、薬で症状を抑えながら務めを続けることになりました。

そして7月場所では全勝優勝を達成。9月場所にも出場し、12勝3敗という好成績を残しています。

この成績だけを見れば、横綱としての力は十分に保たれていたように見えます。しかし、体の内側では病気との闘いが続いていました。

10月6日の手術から10月11日の死去まで

9月場所を終えた玉の海は入院し、10月6日に虫垂炎の手術を受けました。術後は回復しているとみられ、10月12日に退院する予定だったと報じられています。

ところが、その前日の10月11日午前7時30分ごろ、起床後に洗面所で顔を洗った直後に容体が急変。心臓発作を起こし、懸命な救命措置も及ばず、午前11時30分に亡くなりました。

当時報じられた死因は右肺動脈幹血栓症です。現在の医学的な表現では、術後の肺血栓に関連する病態として説明されることがあります。

つまり、玉の海は虫垂炎そのものによって亡くなったのではなく、虫垂炎の手術後に発生した血栓症によって命を落としたのです。

玉の海の最期を時系列で整理
  • 1971年5月~夏:急性虫垂炎を発症し、治療を続けながら土俵に立つ。
  • 1971年7月:名古屋場所で全勝優勝。幕内優勝6回目を達成。
  • 1971年9月:秋場所で12勝3敗。これが最後の出場場所となる。
  • 1971年10月6日:虫垂炎の手術を受ける。
  • 1971年10月10日:退院を翌日に控える。
  • 1971年10月11日:右肺動脈幹血栓症により27歳8カ月で死去。

北の富士にとっても、この出来事は深い悲しみを残しました。日刊スポーツの没後50年の取材記事では、玉の海の訃報を聞いた北の富士が大きな衝撃を受けたことや、長年の友情が紹介されています。

ともに横綱へ昇進し、これから何年も競い合うはずだったライバルが、突然いなくなってしまったのです。

【玉の海の現在と歴史的評価】27歳で終わった横綱人生が残したもの

2026年現在、玉の海正洋は1971年に亡くなった歴史上の横綱です。現役時代の映像や記録、歴代横綱の資料を通じて、その実績が振り返られています。

彼の評価を考える際に重要なのは、横綱としての在位期間の短さと、その期間に残した圧倒的な成績を分けて見ることです。

横綱在位10場所で優勝4回という実績

横綱在位10場所という数字だけを見ると、短命な横綱だったという印象を受けます。しかし、横綱として4回の優勝を果たし、130勝20敗という戦績を残したことを考えれば、実力面で高い評価を受ける理由は明らかです。

特に1971年7月場所の全勝優勝は、玉の海が横綱として完成期に入っていたことを示す実績です。次の時代を担う力士として期待されていた矢先に、その可能性が失われてしまいました。

「北玉時代」はなぜ短く終わったのか

北玉時代が長く続かなかった最大の理由は、玉の海が横綱在位中に亡くなったことです。1970年3月から1971年9月までの10場所という期間は、二人が競い合う新時代の始まりであると同時に、終わりでもありました。

共同通信の解説が示すように、二人は優勝回数が4回ずつで、横綱同士の本割でも北の富士が6勝4敗とわずかに上回る関係でした。

もし玉の海がその後も土俵に立ち続けていれば、北の富士との優勝争いや横綱同士の対戦はさらに続いていたはずです。ただし、実現しなかった未来の成績を実績として語ることはできません。歴史的な評価は、実際に残した記録を基準に考える必要があります。

玉の海に関するよくある誤解

誤解1:玉の海は横綱になってすぐに亡くなった。

横綱在位は10場所です。短い期間ではありますが、その間に4回の幕内優勝を記録しています。昇進直後に実績を残せなかった横綱とは異なります。

誤解2:玉の海は虫垂炎が直接の死因だった。

報道されている死因は右肺動脈幹血栓症です。虫垂炎の手術後に発生した血栓症によって急逝しました。

誤解3:北の富士とは実力差が大きかった。

横綱同士の本割は北の富士6勝4敗ですが、幕内通算では北の富士22勝、玉の海21勝です。両者は互いに競い合う実力者でした。

誤解4:玉の海と玉乃島は別人である。

どちらも同じ力士の四股名です。玉乃島から玉の海へ改名した経歴が、日本相撲協会の公式プロフィールにも記録されています。

【プロの結論】玉の海の記録から読み解く本当の強さ

玉の海正洋を評価する際には、単に27歳で亡くなった悲劇の横綱という側面だけに注目するべきではありません。彼は生涯619勝305敗、幕内優勝6回を記録し、横綱としても10場所で4回の優勝を達成した実力者でした。

特に注目したいのは、次の3つの評価基準です。

  • 実績:生涯成績だけでなく、幕内成績と横綱在位中の優勝回数を分けて評価する。
  • 技術:右四つ、上手投げ、吊り出しを中心とした、足腰と組み手の強さに注目する。
  • 時代背景:大鵬という壁を乗り越え、北の富士と新しい時代を築こうとした過程を理解する。

また、玉の海の記録を調べる際には、日本相撲協会の公式プロフィールを基本資料とし、対戦成績や病状の経緯は当時を振り返る日刊スポーツの連載、共同通信の歴史解説などを組み合わせると、より正確な人物像が見えてきます。

玉の海の評価は、もし長く現役を続けていたらという仮定ではなく、実際に残した記録と相撲の内容によって支えられています。

【玉の海に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:玉の海の読み方は何ですか?
A1:玉の海は「たまのうみ」と読みます。第51代横綱・玉の海正洋のフルネームは「たまのうみ・まさひろ」です。

Q2:玉の海の生涯成績と優勝回数は?
A2:日本相撲協会の公式プロフィールによると、生涯成績は619勝305敗(76場所)、幕内成績は469勝221敗(46場所)です。幕内優勝は6回でした。

Q3:玉の海は何歳で亡くなったのですか?
A3:1971年10月11日、27歳8カ月で亡くなりました。虫垂炎の手術後に右肺動脈幹血栓症を発症したことが死因として報じられています。

Q4:玉の海と北の富士はどのような関係でしたか?
A4:1970年に同時に横綱へ昇進したライバルであり、親しい間柄でもありました。二人が中心となった時代は「北玉時代」と呼ばれ、横綱同士の本割では北の富士が6勝4敗でした。

Q5:玉の海と大鵬の対戦成績は?
A5:日刊スポーツの対戦記録では、不戦勝と優勝決定戦を除く本割の成績は玉の海の6勝21敗です。不戦勝を含めると7勝21敗で、優勝決定戦は別に1勝1敗とされています。

Q6:玉の海はなぜ玉乃島から改名したのですか?
A6:1970年の横綱昇進を機に改名しました。師匠の片男波親方や相撲界の先輩たちとのつながりが、名前を受け継ぐ背景にありました。

Q7:玉の海は横綱として何場所務めましたか?
A7:1970年3月場所から1971年9月場所までの10場所です。その間に横綱として4回の優勝を果たしました。

まとめ:玉の海正洋は短い生涯に大きな記録を残した第51代横綱

玉の海正洋は、1970年に北の富士と同時昇進を果たした第51代横綱です。生涯619勝305敗、幕内優勝6回という実績を持ち、横綱在位10場所でも4回の優勝を達成しました。

大鵬との対戦で経験を積み、北の富士との「北玉時代」を築いた玉の海。その相撲は右四つを中心とした力強さと、優れた足腰を生かした技術に特徴がありました。

1971年10月11日、虫垂炎の手術後に発生した右肺動脈幹血栓症によって27歳8カ月で亡くなり、横綱としての人生は突然終わりました。

2026年現在も、玉の海は単なる悲劇の横綱ではありません。短い横綱人生の中で確かな優勝実績と戦績を残し、大鵬から北玉時代へと移る大相撲の歴史を象徴する力士です。その強さと残された記録こそが、今も玉の海正洋が語り継がれる理由です。

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天海 修平

映画配給会社の広報を経て取材記者に。作品の公式サイトと配給発表、映画祭のプログラミングを公式発表として確認し、興行成績は興行通信社の数字のみを引用します。

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