「お~ま~え~は~ア~ホ~か~!」という独特のメロディーと、ノコギリを楽器に変える奇抜な演奏芸で知られる横山ホットブラザーズ。昭和から平成にかけて上方演芸を代表する音楽ショウグループとして活躍し、世代を超えて親しまれてきた。
そのルーツは、創始者・横山東六が1936年に結成した「横山トーロクショウ」にある。長男の横山アキラ、次男の横山マコト、三男の横山セツオへと受け継がれた芸は、ギターやアコーディオンだけでなく、ミュージックソー、鍋、釜などを使った独創的な音曲漫才へと発展した。所属先も松竹芸能からケーエープロダクションへと変わり、2011年には吉本興業との業務提携を実現している。
2026年現在、かつての兄弟トリオとしての活動は続いていない。2020年のアキラ、2022年のマコトの逝去を経て、グループの歴史は新たな節目を迎えた。結成の背景、メンバーそれぞれの経歴、舞台の変遷、そして長年にわたって愛された理由を整理する。
【1936年から始まった歴史】横山ホットブラザーズのルーツと結成の経緯

横山ホットブラザーズの歴史を語るうえで欠かせない人物が、創始者の横山東六(よこやま・とうろく)である。本名は横山登二。1906年、愛媛県に生まれ、1980年11月6日に亡くなった。
東六は若い頃に大阪へ出て、音楽の道を歩み始めた。大阪府立上方演芸資料館「ワッハ上方」の人物紹介によると、1928年に関西交響楽団へ入団し、1933年には「陽気屋東六」の芸名で漫才師としてデビューしている。
もともと音楽家としての経験が豊富だった東六は、演奏技術を笑いと組み合わせる独自の芸を模索した。そして1936年、妻の登志子とともに音楽と笑いを融合させた「横山トーロクショウ」を結成する。
当初は、現在知られるようなノコギリ芸を中心とした漫才ではなかった。ボーカルやドラムを含むバンド形式の歌謡ショウで、音楽を主体とした比較的まじめなステージを展開していた。家族や弟子たちも参加し、地方興行などを通じて活動の基盤を築いていった。
なお、結成時期については資料によって表現に違いがある。ワッハ上方は1936年の「トウロクショウ」結成を紹介する一方、大阪市の無形文化財に関する紹介資料では昭和12年(1937年)を結成時期として記載している。前身となる音楽ショウの成立と、その後のグループ編成を区別して理解すると整理しやすい。
横山ホットブラザーズという名前が生まれた背景1936年の結成から、現在知られるグループ名が定着するまでには時間があった。
戦後は「横山ファミリーショウ」などの名称でも活動し、家族を中心とした音楽グループとして地方巡業や舞台出演を続けた。その後、1952年ごろ、戎橋松竹への出演を機に「横山ホットブラザーズ」という名前になったとする演芸史の研究記事がある。同記事は1953年説や1954年説にも触れながら、1952年説を採用している。
「ホットブラザーズ」という名前には、兄弟を主体にしたグループとして活動していく意味が込められていたとされる。命名したのは父の東六で、家族ショウから兄弟を中心とした音楽ショウへと転換する象徴的な出来事だった。
したがって、横山ホットブラザーズの歴史を1936年から数えることと、現在のグループ名での活動を1952年ごろからと整理することは、必ずしも矛盾しない。前者は芸のルーツ、後者はグループとしての名称と編成の節目を示している。
【メンバーの経歴】横山東六からアキラ・マコト・セツオへ受け継がれた芸
横山ホットブラザーズの最大の特徴は、実の兄弟による息の合った音楽と掛け合いにあった。中心となった3人は、長男アキラ、次男マコト、三男セツオ。それぞれ担当楽器や舞台上の役割が異なり、3人がそろうことで独特の音楽ショーが成立していた。
横山東六:音楽と笑いを融合させた創始者父の横山東六は、グループの発想と芸風の土台を築いた人物だ。楽団での経験を持つ音楽家でありながら、舞台では鍋や釜、ノコギリ、ほうきなど、一般的には楽器と考えられていない道具にも着目した。
ワッハ上方の紹介では、創作楽器や小道具を使ったネタの多くを東六が考案したとされる。演奏技術だけで勝負するのではなく、観客が見て驚き、音を聞いて笑える舞台をつくった点が大きな功績だ。
1974年6月に引退し、1980年に74歳で亡くなった。東六の引退後も、息子たちは父が築いた音楽ショウの伝統を守り続けた。
横山アキラ:ノコギリ芸を全国に広めた長男横山アキラは1932年生まれ。兄弟トリオのリーダーを務め、ギターやミュージックソーを使った芸で人気を集めた。
特に有名なのが、ノコギリを使って「お~ま~え~は~ア~ホ~か~!」と聞こえる音を奏でる演目である。単に珍しい道具を演奏するだけではなく、音の変化と表情、ほかのメンバーのツッコミを組み合わせた完成度の高い舞台だった。
アキラは2020年12月9日、腎不全のため88歳で亡くなった。所属事務所によると、最後の舞台は2016年秋のなんばグランド花月だった。舞台復帰を目指してリハビリに取り組んでいたことも、当時の報道で伝えられている。
横山マコト:アコーディオンで音楽ショーを支えた次男横山マコトは1934年生まれ。本名は横山誠。アコーディオンを担当し、兄アキラと弟セツオを音楽面から支えた。
マコトの役割は、単なる伴奏者ではない。曲の進行や舞台のテンポを整え、歌と掛け合いをつなぐ重要な存在だった。ワッハ上方も、アコーディオンの名手として紹介している。
また、作曲家としての活動もあり、音楽的な素養を生かしてグループの演奏を支えた。長年にわたるトリオの活動では、兄弟の掛け合いと演奏の両方に欠かせない存在だった。
2022年4月22日、虚血性心疾患のため87歳で逝去。所属事務所が発表し、TBS NEWS DIGなどが報じた。2020年のアキラに続く訃報となり、長年のファンや演芸関係者に大きな衝撃を与えた。
横山セツオ:1966年から参加した三男横山セツオは1946年4月3日生まれ。本名は横山節雄。エレキギターを担当し、兄たちとの掛け合いでは独特のツッコミを受ける役割でも親しまれた。
1966年からグループに参加した。学生時代からバンド活動に親しみ、演奏技術を磨いていたことが、音楽ショウへの参加につながった。
セツオの舞台上の魅力は、兄たちとの関係性を生かした掛け合いにある。アキラやマコトからツッコミを受け、会話の輪から外されるような展開も、グループの定番の笑いになっていた。
2022年にマコトが亡くなった際には、兄たちを失った寂しさを語っている。ワッハ上方の人物紹介では1946年生まれとして掲載されている。2026年現在は80歳となる年齢だ。
【芸風の秘密】音曲漫才・ミュージックソー・ギターを組み合わせた独創性
しゃべくり漫才とは異なる音曲漫才とは?横山ホットブラザーズを理解するうえで重要なのが、音曲漫才というジャンルである。
一般的なしゃべくり漫才は、会話のテンポや言葉の掛け合いを中心に笑いを生み出す。一方、音曲漫才は歌や楽器の演奏を取り入れ、音楽と話芸を組み合わせて観客を楽しませる芸だ。
その源流には、鼓や三味線、胡弓などを使った三曲万歳がある。近代漫才では歌を中心とした音曲漫才が発展し、戦後の昭和30年代ごろまでは漫才の主要な形式の一つだった。
しかし、時代が進むにつれて会話主体のしゃべくり漫才が主流になり、音楽ショーを継承する芸人は少なくなっていった。大阪市の文化財紹介資料も、横山ホットブラザーズが音曲漫才を継承してきた点を評価している。
「お前はアホか」で知られるミュージックソー横山ホットブラザーズを象徴する演目といえば、やはりミュージックソーを使ったノコギリ芸だ。
ミュージックソーは、ノコギリの形をした金属板から音を生み出す楽器である。金属板をしならせることで音程が変化し、独特の伸びやかな音色を生み出せる。
横山ホットブラザーズのアキラが披露した演奏では、ノコギリをマレットで叩きながら音を変化させ、関西弁のイントネーションを思わせるメロディーをつくり出した。その音に合わせて「お~ま~え~は~ア~ホ~か~!」と聞こえるように演奏するのが看板芸だった。
この芸が優れていたのは、音楽的な技術と笑いの構造が一体化していたことだ。観客は最初、ノコギリから音が出ることに驚く。その後、聞き覚えのある言葉のような音に気づき、最後に兄弟の掛け合いで笑う。短い時間の中に、驚きと理解、笑いが順番に組み込まれていた。
ギターやアコーディオン、鍋・釜まで楽器に変える発想横山ホットブラザーズの魅力はノコギリだけではない。通常のギターやアコーディオンに加えて、日用品を演奏道具に変える工夫も大きな特徴だった。
アキラのギターは演奏の伴奏だけでなく、打楽器的な使い方も取り入れられていた。マコトのアコーディオンは楽曲を支え、セツオのエレキギターは全体の音楽に厚みを与えた。
加えて、鍋や釜、ほうき、はたきといった道具も舞台に登場した。普段の生活では音楽と結び付かないものを使い、予想外の音を生み出す。その意外性が観客の笑いにつながっていた。
ボーイズ物としての伝統も継承横山ホットブラザーズの芸は、音曲漫才だけでなく、ボーイズ物の伝統とも関係している。
ボーイズ物とは、複数の男性芸人が集まり、歌や楽器演奏、コント的な掛け合いを組み合わせて披露する音楽ショーの形式を指す。個人の話術だけでなく、メンバーそれぞれの音楽的な役割と集団としての呼吸が求められる。
横山ホットブラザーズは、こうした音楽ショーの伝統を守りながら、独自の創作楽器や兄弟間の掛け合いを加えて発展させた。単なる昔ながらの演芸ではなく、音楽と笑いの両方を磨き続けた点に独自性がある。
【経歴・年表】戎橋松竹からトップホットシアター、吉本興業との提携まで
横山ホットブラザーズの活動を追うと、上方演芸の劇場文化や芸能プロダクションの変遷とも深く関係していることが分かる。
戎橋松竹をはじめ、道頓堀角座、梅田のトップホットシアターなど、関西の演芸を支えた舞台で活動を重ねた。劇場出演だけでなく、キャバレーや地方巡業、営業にも力を入れていた。
横山ホットブラザーズの主要な歴史年表| 年代 | 出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1928年 | 横山東六が関西交響楽団に入団 | 創始者の音楽家としての基盤 |
| 1933年 | 陽気屋東六の名で漫才師としてデビュー | 音楽から演芸への展開 |
| 1936年 | 横山トーロクショウ結成 | グループの原点 |
| 1937年 | 次男マコトが初舞台 | 家族による芸の継承 |
| 1952年ごろ | 戎橋松竹への出演を機に横山ホットブラザーズへ改称したとする説 | 現在のグループ名の成立 |
| 1966年 | 三男セツオが加入 | 兄弟3人の体制へ向かう転換点 |
| 1970年 | ケーエープロダクションへ移籍 | 所属体制の転換 |
| 1974年6月 | 横山東六が引退 | 兄弟3人を中心とした活動へ |
| 1996年 | 第51回文化庁芸術祭大賞受賞 | 音曲漫才の芸術的評価 |
| 2003年 | 第38回上方漫才大賞・大賞受賞 | 上方漫才界での功績を評価 |
| 2009年 | 上方演芸の殿堂入り | 演芸史に残る功績 |
| 2011年 | 吉本興業と業務提携 | なんばグランド花月などへの出演 |
| 2016年10月 | なんばグランド花月での舞台が最後の出演 | トリオとしての舞台活動が休止状態に |
| 2020年12月 | 長男アキラが逝去 | リーダーを失う |
| 2022年4月 | 次男マコトが逝去 | 兄弟トリオの歴史に大きな節目 |
年表のうち、1936年の前身グループ結成や1974年の東六引退、受賞歴についてはワッハ上方の紹介が参考になる。所属事務所の公式プロフィールにも、1971年から2009年までの主要な受賞・顕彰記録が掲載されている。
戎橋松竹と道頓堀角座で培った舞台経験横山ホットブラザーズの歴史を語る際、戎橋松竹は重要な劇場だ。1952年ごろのグループ名の変更と関係し、戦後の大阪演芸界で活動の足場となった。
その後は松竹系の演芸興行にも参加し、道頓堀角座や浪花座などの大劇場で経験を積んだ。角座は、落語や漫才をはじめとする上方演芸の中心的な舞台として知られ、多くの人気芸人が出演していた。
また、梅田コマ劇場に併設されたトップホットシアターなどでも活動した。こうした劇場での経験は、異なる客層や舞台環境に対応する力を磨く機会になった。
劇場だけでなくキャバレーや地方巡業にも出演していた点は見逃せない。さまざまな場所で観客と接することにより、演奏の見せ方や掛け合いのテンポを磨き、幅広い世代に受け入れられる芸をつくり上げていった。
松竹芸能からケーエープロダクションへの移籍横山ホットブラザーズは、松竹系の演芸興行と深い関係を持ちながら活動していた。その後、1970年ごろにケーエープロダクションへ移籍した。
大阪府立上方演芸資料館の平成30年度年報に掲載された松竹芸能の歴史によると、漫才作家の秋田實が1970年にKAプロダクションを設立し、横山ホットブラザーズも同事務所へ移籍したと記録されている。
一方、ケーエープロダクションの公式会社案内では、会社の創業を1968年4月としている。会社の創業時期と、秋田實による事業体制の整備・芸人の移籍時期を分けて理解する必要がある。
現在の所属先として知られるケーエープロダクションは、芸能人の育成やマネジメント、演芸・演劇の企画制作などを手掛けるプロダクションだ。横山ホットブラザーズも、その所属グループとして公式サイトに掲載されている。
2011年の吉本興業との業務提携は移籍とは異なる2011年4月11日、横山ホットブラザーズは吉本興業との本格的な業務提携を発表した。
吉本興業の当時のニュース発表によると、なんばグランド花月をはじめとする劇場への定期出演が決定。同日には、吉本との提携後初めてとなるNGK出演も実現した。
当時の発表では、横山トーロクショウ以来75年にわたって第一線で活躍してきたグループとして紹介されている。加えて、メンバーはNGKの舞台で「44年ぶりに戻ってきました!」と挨拶した。
ここで注意したいのは、吉本興業との業務提携と、所属事務所の移籍は同じではないという点だ。2011年の出来事は吉本興業との業務提携であり、ケーエープロダクションの公式プロフィールにもグループが掲載されている。単純に「吉本興業へ完全移籍した」と理解するのは正確ではない。
【受賞歴と評価】なぜ横山ホットブラザーズは長く愛されたのか
横山ホットブラザーズの実績は、テレビで有名な一発芸だけにとどまらない。演奏技術、舞台構成、上方演芸への貢献が評価され、数々の賞を受賞してきた。
文化庁芸術祭大賞と上方漫才大賞主な受賞・顕彰歴には、次のものがある。
- 1971年:第6回上方漫才大賞・奨励賞
- 1985年:第9回日本パロディ展・優秀賞
- 1991年:第20回上方お笑い大賞・審査員特別賞
- 1994年:第29回上方漫才大賞・審査員特別賞
- 1996年:第51回文化庁芸術祭・大賞
- 2003年:第38回上方漫才大賞・大賞
- 2009年:上方演芸の殿堂入り
- 2017年:大阪市の無形文化財に指定
特に1996年の文化庁芸術祭大賞は、横山ホットブラザーズの芸術的な評価を示す大きな実績である。2003年には上方漫才大賞の大賞を受賞し、2009年には上方演芸の殿堂入りを果たした。
さらに2017年6月には、大阪市の無形文化財に指定された。大阪市は、歌と掛け合い、珍しい楽器の演奏などを長年継承し、上方漫才の発展に貢献したことを評価している。
長く愛された3つの理由第一の理由は、音楽的な実力が芸の土台にあったこと。
横山ホットブラザーズは、単に変わった道具を使って笑わせるグループではなかった。アコーディオンやギターをはじめとする楽器の演奏を基本とし、ノコギリなどの創作楽器も舞台の一部として成立させていた。演奏そのものに見応えがあったからこそ、長く支持された。
第二の理由は、兄弟それぞれの個性が明確だったこと。
アキラのボケやノコギリ芸、マコトのアコーディオンと進行、セツオのギターとツッコミ。3人の役割がはっきりしていたため、観客は誰がどの場面で笑いを生み出すのかを理解しやすかった。
また、長年一緒に舞台を経験してきた兄弟だからこそ、演奏と会話のタイミングが自然につながった。個々の技術だけではなく、3人で一つのショーをつくる力があった。
第三の理由は、子どもから高齢者まで楽しめる視覚的な面白さ。
ノコギリから音が出るという意外性は、世代や漫才の知識に左右されにくい。言葉の意味をすべて理解しなくても、演奏の動きや音の変化だけで楽しめる。そこに関西らしいテンポのよい掛け合いが加わることで、幅広い観客に親しまれた。
大阪市の文化財指定は、こうした芸を単なる懐かしい娯楽ではなく、上方演芸の文化的な蓄積として評価したものでもある。
【2026年現在】横山ホットブラザーズは解散した?現在の活動状況
2016年10月の舞台を最後にトリオの活動は休止横山ホットブラザーズの舞台活動は、2016年10月のなんばグランド花月への出演が最後となった。
長男アキラが体調を崩したことで、3人そろっての活動が難しくなった。次男マコトは、3人でなければ横山ホットブラザーズではないという考えを持ち、兄の復帰を待っていたと報道されている。
しかし、アキラは2020年12月に88歳で逝去。続いて2022年4月には、マコトも87歳で亡くなった。
このため、長年親しまれた兄弟3人によるトリオとしての舞台活動は事実上終了している。正式な解散発表というより、メンバーの逝去と活動休止によって、従来の形での公演が難しくなったと捉えるのが適切だ。
三男セツオと受け継がれる演芸の記憶2022年のマコトの訃報時、報道ではセツオが兄弟3人のうち残されたメンバーとして紹介された。1946年生まれで、兄たちとともに音曲漫才の伝統を支えてきた人物である。
2024年7月には、オール巨人の公式ブログで、セツオが営むカラオケスナックの15周年に訪問したことが紹介された。兄弟トリオとしての舞台活動とは別に、こうした交流を通じて芸人仲間とのつながりが続いていたことが分かる。
2026年現在、横山ホットブラザーズとしての新たなトリオ公演再開を示す公式発表は確認できない。また、所属事務所の公式サイトには往年の3人を紹介するグループプロフィールが残っているが、これは現在の3人体制で活動していることを意味しない。
横山ホットブラザーズの現在を調べる際には、歴史的なメンバー紹介と、現在の活動状況を区別することが大切だ。
【よくある誤解を整理】横山ホットブラザーズについての事実確認
1936年結成なのに1952年結成ともいわれるのはなぜ?1936年は前身となる横山トーロクショウの結成時期である。一方、1952年ごろは現在の「横山ホットブラザーズ」という名称が使われ始めた時期とされる。前身グループの成立と現在の名称の成立を区別すると理解できる。
吉本興業に完全移籍したの?2011年に吉本興業と業務提携を結んだことは事実だが、ケーエープロダクションから完全に移籍したという意味ではない。所属事務所と劇場出演などの業務提携は別の関係である。
ノコギリ芸は普通のノコギリで演奏していたの?看板芸にはミュージックソーと呼ばれる演奏用のノコギリが使われた。横山ホットブラザーズの特徴は、ノコギリをマレットで叩きながら音を変化させ、言葉のように聞こえる音を生み出したことにある。
横山ホットブラザーズは現在も3人で活動している?いいえ。長男アキラが2020年、次男マコトが2022年に亡くなっている。2016年10月のなんばグランド花月出演を最後に、従来の兄弟トリオとしての舞台活動は休止状態となっている。
まとめ:横山ホットブラザーズが上方演芸に残した功績
横山ホットブラザーズの歴史は、1936年に横山東六が結成した横山トーロクショウから始まった。音楽家としての経験を持つ東六が生み出した音楽ショウは、息子たちへと受け継がれ、アキラ、マコト、セツオの兄弟トリオによって独自の音曲漫才へと発展した。
ミュージックソーによる「お~ま~え~は~ア~ホ~か~」の演奏芸、アコーディオンやギターを使った音楽、鍋や釜などの日用品を取り入れた創作楽器。これらを組み合わせた芸は、しゃべくり漫才が主流となる中でも音楽ショーの伝統を守り続けた。
所属先は松竹芸能からケーエープロダクションへと変わり、2011年には吉本興業との業務提携によって、なんばグランド花月などの舞台にも出演した。文化庁芸術祭大賞、上方漫才大賞、大阪市の無形文化財指定など、数々の評価もその功績を裏付けている。
2026年現在、かつての3人による舞台は見られない。しかし、横山ホットブラザーズが築いた音曲漫才の歴史は、上方演芸の貴重な財産として残っている。単なる珍芸ではなく、確かな音楽技術と計算された笑いを融合させた舞台芸術だったことこそ、長く愛されてきた最大の理由である。
横山ホットブラザーズを知ることは、昭和から平成にかけての大阪のお笑い文化と、音楽を使った漫才の奥深さを知ることにもつながる。その芸は、今後も上方演芸史を語るうえで欠かせない存在であり続けるだろう。
主な事実確認資料
- 大阪府立上方演芸資料館「ワッハ上方」:創始者・メンバー・芸風・受賞歴
- ケーエープロダクション公式サイト:所属情報・メンバー構成・受賞歴
- 大阪市の無形文化財紹介資料:音曲漫才の文化的評価
- 吉本興業2011年発表:業務提携となんばグランド花月への出演
- TBS NEWS DIG、デイリースポーツ:2020年・2022年の訃報と活動休止の経緯
- 大阪府立上方演芸資料館『平成30年度年報』:松竹芸能とKAプロダクションの歴史