岸本才三は1928年、兵庫県神戸市に生まれました。若い頃に海軍航空隊へ志願しましたが、出撃する前に終戦を迎え、復員後は神戸市の職員として働くようになりました。
その後、1955年ごろ、知人だった中山組の組長・中山美一との関係を通じて山口組傘下の組織に加わります。当時は神戸市職員として働きながら組織にも関係していたと報じられており、一般的な暴力団幹部の経歴とは異なる出発点でした。
元海軍航空隊員という戦時中の経歴岸本は戦時中、海軍航空隊に志願しました。本人が出撃する前に終戦となり、その後、軍務を離れて神戸に戻っています。
海軍航空隊員だったという経歴は、2014年の訃報を伝えた神戸新聞でも紹介されています。ただし、所属部隊や具体的な任務、訓練内容などについては、同紙の訃報記事からは詳しく分かりません。
神戸市職員から山口組傘下の組織へ復員後に神戸市職員となった岸本は、1955年ごろ、中山組の中山美一との関係から山口組の系列に入ります。
中山組では舎弟頭を務め、1973年に中山が引退すると、三代目山口組の組長だった田岡一雄から直参として迎えられました。
ここでいう直参とは、上部団体の組長と直接の親子関係を結ぶ立場を指します。傘下組織の幹部から、山口組本体の直系組長へと立場が変わったことは、岸本の経歴における大きな転換点でした。
【山口組での歴代役職】岸本才三は組織の中枢で何を担ったのか

岸本の名前が山口組の歴史でたびたび取り上げられる理由は、複数の組長体制をまたいで中枢の役職を務めたことにあります。
三代目田岡一雄体制で直参となった後、四代目竹中正久体制では本部長兼若頭補佐、五代目渡辺芳則体制では総本部長に就任。六代目司忍体制では最高顧問となりました。
三代目から六代目までの役職の変遷| 時期 | 山口組の体制 | 岸本才三の役職・動向 |
|---|---|---|
| 1955年ごろ | 三代目体制 | 中山組を通じて山口組傘下に入る |
| 1973年 | 三代目・田岡一雄 | 中山組から三代目山口組の直参に昇格 |
| 1984年 | 四代目・竹中正久 | 本部長兼若頭補佐に就任 |
| 1989年 | 五代目・渡辺芳則 | 総本部長に就任 |
| 1997年 | 五代目体制 | 宅見勝射殺事件に遭遇 |
| 1998年ごろ | 五代目体制 | 若頭代行などの要職を兼任 |
| 2005年 | 六代目・司忍 | 最高顧問に就任 |
| 2007年10月 | 六代目体制 | 引退 |
| 2014年1月17日 | 引退後 | 85歳で死去 |
この年表は、神戸新聞の訃報記事と2007年の引退報道、当時の組織人事に関する資料をもとに整理したものです。
四代目山口組では本部長兼若頭補佐1984年、竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると、岸本は本部長兼若頭補佐に就任しました。
本部長は組織の本部運営に関わる役職であり、若頭補佐は若頭を支える立場です。岸本はこの二つの役職を担い、組織の中枢に位置する幹部となりました。
五代目渡辺芳則体制では総本部長1989年に渡辺芳則が五代目組長に就任すると、岸本は総本部長となりました。
総本部長という役職は、山口組本体の本部運営に関係する重要なポストです。若頭が組織のナンバー2として知られる一方、総本部長は本部の運営や組織内の調整を担う幹部として位置づけられました。
岸本はこの時期、山口組の中枢で長く活動しました。2014年の死去を伝えた神戸新聞も、数十年にわたって組織運営に携わった人物として紹介しています。
1997年以降は若頭代行なども兼任1997年には、山口組の舎弟頭だった益田啓助が引退し、同年8月には若頭の宅見勝が射殺されました。
組織の主要な役職者が相次いで不在となったことを受け、岸本は翌1998年ごろから若頭代行などの役職も兼任したとされています。組織の人事を扱う資料では、舎弟頭代行も兼ねたとする記録があります。
若頭と舎弟頭という重要な役職が不在となった時期に、複数の代行職を担ったことは、岸本が当時の山口組でどのような位置にいたのかを理解するうえで要点です。
【岸本組とは】初代組長として築いた立場と山口組との関係
岸本組は、岸本才三が初代組長を務めた神戸市を拠点とする山口組傘下の組織です。
岸本自身が山口組の直参として活動する一方、自身の名前を冠した岸本組を率いていました。つまり、山口組本体での役職と、傘下組織の組長という二つの立場を持っていたことになります。
岸本組と山口組の組織上の関係山口組は、組長を頂点として直系組長や傘下団体が連なる階層構造を持つ指定暴力団です。岸本組はその系列に属する二次団体として知られています。
岸本才三は岸本組の初代組長であり、山口組本体では総本部長や最高顧問を務めました。このため、岸本組の組長という肩書だけでは、山口組内部における岸本の影響力を十分に説明できません。
一方、岸本組の正確な結成年月日や設立当初の組織規模については、主要な訃報報道では詳しく紹介されていません。
最高顧問と総本部長は何が違うのか岸本の経歴を調べる際に混同されやすいのが、総本部長と最高顧問という二つの役職です。
総本部長は本部運営に関係する役職として知られます。一方、最高顧問は組織内の経験や立場を背景とする上級の顧問職です。
岸本は五代目体制で総本部長を務めた後、六代目体制では最高顧問となりました。これは単純に同じ役職を継続したということではなく、組織の体制変更に伴う役職の変化です。
【宅見勝射殺事件との関係】岸本才三も襲撃現場にいた
岸本才三の経歴を語るうえで避けられない出来事が、1997年8月28日に発生した宅見勝射殺事件です。
宅見勝は五代目山口組の若頭で、宅見組の組長でもありました。山口組のナンバー2に当たる人物が神戸市中央区のホテルで射殺されたこの事件は、組織内の抗争を象徴する重大事件として記録されています。
1997年8月28日に何が起きたのか事件が発生したのは、神戸市中央区にあった新神戸オリエンタルホテルです。
神戸新聞の事件検証記事によると、ホテルの喫茶室で宅見勝が銃撃され、居合わせた兵庫県芦屋市の歯科医師も流れ弾に当たって死亡しました。
事件の実行犯は山口組傘下の中野会関係者とされ、兵庫県警による捜査が行われました。2017年の神戸新聞による事件発生20年の記事でも、組織内部のトラブルに端を発した抗争殺人事件として振り返られています。
岸本才三は事件にどう関係していたのか神戸新聞が2014年1月17日に報じた岸本の訃報には、事件当時の状況も記されています。
岸本は宅見勝と一緒にいたところを襲撃グループに銃撃されました。しかし、別の幹部とともに難を逃れています。
ここで重要なのは、岸本が事件現場に居合わせた人物として報じられていることと、事件の実行や計画に関与したこととは別の話だという点です。神戸新聞の訃報記事は、岸本が襲撃を生き延びた事実を伝えていますが、岸本自身が襲撃に関与したとは報じていません。
また、この事件では宅見勝だけでなく一般市民である歯科医師も犠牲になりました。暴力団内部の対立が無関係の市民の命まで奪った事件として、その社会的な重大性を忘れてはなりません。
【2007年の引退と2014年の死去】晩年と死因の真相
長年にわたって山口組の中枢で活動した岸本ですが、六代目体制が始まってから約2年後の2007年10月、引退しました。
2007年10月、六代目体制で引退2007年10月4日の引退報道では、岸本が最高顧問を退く方針を固めたことが伝えられました。当時79歳だった岸本は、翌5日に神戸市の山口組総本部で開かれる定例会で正式に引退を表明すると報じられています。
引退の背景として報じられたのは、高齢化や体調面の変化です。また、宅見勝射殺事件から10年という節目を迎えた時期でもありました。
2007年の報道では、岸本の引退は山口組の古参幹部の世代交代という観点からも取り上げられました。長く組織を支えてきた世代から、新しい幹部層へと中心が移っていく時期だったのです。
2014年1月17日に85歳で死去神戸新聞は2014年1月17日23時57分付の記事で、岸本才三が同日午後に死去したと報じました。
亡くなった時の年齢は85歳。警察当局への取材に基づく報道で、岸本は当時、体調を崩して入院していたとされています。
岸本才三の死因は何だったのか検索されることの多い死因について、神戸新聞は詳しい死因は不明で、病死とみられると伝えています。
したがって、特定の病名や持病、具体的な治療内容まで確定した情報として扱うことはできません。
また、2014年の死去は2007年の引退から約6年3か月後に当たります。引退後も存命していましたが、最晩年には体調を崩して入院していたことが報道されています。
【2026年現在】岸本才三はどうなった?現在の状況を整理
2026年現在、岸本才三はすでに亡くなっています。2014年1月17日の死去が確認されており、現在活動している人物ではありません。
そのため、「岸本才三の現在」という検索に対する答えは、2007年に山口組から引退し、2014年に85歳で死去したという経歴に集約されます。
引退後の岸本と岸本組の違い岸本本人の引退と、岸本組という組織の存続は別の問題です。
岸本は2007年に引退しましたが、岸本組は初代組長の引退によってその歴史が直ちに終わったわけではありません。後継者への継承が行われたとする組織史資料もあります。
ただし、岸本本人が引退後に組織運営へどの程度関わっていたかについては、詳細な公的記録は見当たりません。
岸本才三の経歴を確認するときの注意点岸本に関する情報には、人物の経歴、山口組の人事、岸本組の歴史、事件報道が混在しています。
特に注意したいのは、六代目山口組の最高顧問だった時期と、引退後の状況を混同しないことです。岸本は2005年に最高顧問となりましたが、2007年には引退しており、2014年には亡くなっています。
また、宅見勝射殺事件に居合わせたという事実を、事件への加担や実行への関与と混同することも避ける必要があります。
【プロの結論】岸本才三の経歴から分かる山口組の組織史
岸本才三の経歴で特徴的なのは、戦時中の海軍航空隊員、戦後の神戸市職員という経歴から、山口組の直系組長、さらに総本部長や最高顧問へと立場を変えていったことです。
その歩みは、三代目田岡一雄から四代目竹中正久、五代目渡辺芳則、六代目司忍へと続く山口組の歴代体制を理解する手掛かりにもなります。
特に注目すべきなのは、岸本が若頭や組長という立場ではなく、総本部長や最高顧問といった役職を歴任したことです。組織の歴史を追う際には、単純な序列だけでなく、それぞれの役職がどの時期に置かれ、どのような立場を示していたのかを読み解く必要があります。
加えて、1997年の宅見勝射殺事件は、山口組の組織内部の対立が一般市民を巻き込む深刻な事件に発展したことを示しています。岸本が現場に居合わせたという経歴上の事実も、この事件の重大性と切り離して理解することはできません。
岸本の引退が報じられた2007年は、古参幹部の退場と組織の世代交代が重なった時期でした。その後の2014年の死去によって、岸本本人の経歴は幕を閉じています。
岸本才三に関するよくある質問(FAQ)
Q1:岸本才三は何者ですか?
A1:六代目山口組の元最高顧問で、岸本組の初代組長です。元海軍航空隊員、元神戸市職員という経歴を持ち、三代目山口組の田岡一雄体制で直参となりました。
Q2:岸本才三は山口組でどのような役職を務めましたか?
A2:三代目山口組の直参となった後、四代目体制で本部長兼若頭補佐、五代目体制で総本部長、六代目体制で最高顧問を務めました。また、五代目体制では若頭代行なども兼任したとされています。
Q3:岸本才三は宅見勝射殺事件に関与していたのですか?
A3:神戸新聞によると、1997年8月28日の事件当時、岸本は宅見勝と一緒におり、襲撃に遭遇しました。別の幹部とともに難を逃れています。現場に居合わせたことは報じられていますが、事件の実行や計画への関与を示す報道とは区別する必要があります。
Q4:岸本才三は2007年に引退したのですか?
A4:はい。2007年10月に六代目山口組の最高顧問を引退しました。当時79歳で、高齢化や体調面の変化も報道されています。
Q5:岸本才三の死因は何ですか?
A5:2014年1月17日に85歳で死去しました。神戸新聞は詳しい死因は不明とし、病死とみられると報じています。具体的な病名は公表されていません。
Q6:岸本才三は2026年現在も存命ですか?
A6:いいえ。2014年1月17日に死去しています。2007年の引退後、約6年3か月を経て亡くなりました。
まとめ:岸本才三の経歴と山口組での役割を振り返る
岸本才三は、元海軍航空隊員、元神戸市職員という経歴を経て、山口組の中枢に入った人物です。田岡一雄の三代目体制で直参となり、四代目では本部長兼若頭補佐、五代目では総本部長、六代目では最高顧問を歴任しました。
1997年の宅見勝射殺事件では襲撃現場に居合わせながら生還し、2007年10月に引退。2014年1月17日に85歳で死去しています。
2026年現在の岸本才三を理解するうえで押さえておきたいのは、山口組の歴代体制における役職の変遷、岸本組の初代組長としての立場、そして引退と死去の時系列です。これらを整理することで、岸本が山口組の組織史においてどのような位置を占めた人物だったのかが見えてきます。
人物の経歴と組織の歴史、そして事件の事実を分けて捉えることが、岸本才三という人物を正確に理解するための基本となります。
主な報道・参考資料
- 神戸新聞NEXT「山口組元幹部 岸本才三元組長が死去」(2014年1月17日)
- 神戸新聞NEXT「宅見組長射殺事件20年」(2017年8月29日)
- 2007年10月4日の岸本最高顧問引退に関する報道(ZAKZAK掲載記事)