平松政次は、岡山県高梁市出身の元プロ野球選手です。身長176cm、体重74kg。右投右打の投手として、セ・リーグを代表する本格派右腕に成長しました。
基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 平松政次 |
| 読み方 | ひらまつ・まさじ |
| 生年月日 | 1947年9月19日 |
| 2026年11月現在の年齢 | 79歳 |
| 出身地 | 岡山県高梁市 |
| 身長・体重 | 176cm・74kg |
| 投打 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| 出身高校 | 岡山東商業高校 |
| 社会人野球 | 日本石油 |
| プロ入り | 1966年二次ドラフト2位 |
| 所属球団 | 大洋ホエールズ、横浜大洋ホエールズ |
| 現役期間 | 1967~1984年 |
| 主な愛称 | カミソリ平松、ガラスのエース |
出典は日本野球機構、日本プロ野球名球会、所属先の公式プロフィールです。
岡山東商業高校で甲子園優勝投手に平松の野球人生を語るうえで欠かせないのが、岡山東商業高校時代です。
1965年春、平松は同校のエースとして選抜高校野球大会に出場し、チームを優勝に導きました。
高校球界で実績を残したことで、プロ球団からも注目される存在になります。
その後、社会人野球の日本石油(現在のENEOS)へ進み、投手としてさらに経験を積みました。
1967年には都市対抗野球大会で優勝に貢献。大会で優れた活躍をした選手に贈られる橋戸賞も獲得しています。
高校野球のスターから社会人野球の実力者へ。この段階で、すでに将来のプロ野球を背負う投手としての土台ができていました。
「ガラスのエース」と呼ばれた理由平松には「カミソリ平松」という勇ましい愛称がある一方、「ガラスの平松」「ガラスのエース」という呼び名も伝えられています。
その背景には、風邪をひきやすかったことや、現役時代に故障を経験したことがありました。
ただし、この愛称だけで平松の投手像を判断するのは適切ではありません。
実際には12年連続で2桁勝利を記録し、18年間で201勝を積み上げています。
故障や体調面の問題と向き合いながら、長期にわたってチームの中心を担ったことも、彼のキャリアを理解する要点です。
【巨人入団を希望した理由】長嶋茂雄への憧れとドラフトの運命

平松政次の人生には、巨人への憧れという大きな背景があります。
子どもの頃から巨人ファンだった平松が、とりわけ憧れていたのが長嶋茂雄でした。
長嶋茂雄との初対面が忘れられない思い出に2025年6月のアサ芸プラス掲載記事では、平松本人が高校3年生だった1965年秋の出来事を振り返っています。
岡山で巨人対阪神のオープン戦が開催された際、巨人の宿舎となっていた旅館を訪問。同級生の紹介などを通じて、長嶋茂雄や王貞治のいる部屋に案内されたといいます。
そこで憧れの長嶋からサインをもらいました。
高校野球で甲子園優勝を経験した青年にとって、プロ野球のスター選手と直接会えたことは、巨人への思いをさらに強くする出来事でした。
巨人に入れなかったのはドラフト制度の導入が原因平松が高校3年生だった1965年、日本プロ野球ではドラフト制度が導入されました。
それまでのように各球団が自由に選手と交渉して獲得する仕組みから、ドラフトによって指名する方式へと変わったのです。
2024年10月のTBS NEWS DIGの取材記事によると、平松は高校時代に巨人側からもアプローチを受けており、本人も巨人への入団を強く望んでいました。
ところが、最初のドラフト会議で巨人が1位指名したのは甲府商業の堀内恒夫。平松は中日から4位指名を受けましたが、入団を選ばず、日本石油へ進みます。
翌1966年の二次ドラフトでは大洋ホエールズから2位指名を受けました。
巨人からの指名を待って社会人野球を続ける選択肢もありましたが、家族や高校の先輩からの説得もあり、大洋への入団を決断します。
最終的には大洋ホエールズへの入団を肯定興味深いのは、巨人への憧れを持ち続けていた平松が、後年になって大洋への入団を肯定的に振り返っていることです。
TBS NEWS DIGの2024年のインタビューでは、大洋に入ったからこそ200勝を達成できたという趣旨の心境を明かしています。
つまり、巨人に入れなかったことは当初の本人にとって残念な出来事でしたが、結果的には大洋という球団で歴史的な実績を残しました。
長嶋茂雄への憧れが、やがて巨人の強力打線に立ち向かう投手としての原動力になった点も、平松のキャリアの面白さです。
なお、入団時に選んだ背番号は「3」でした。長嶋への敬意を込めた番号と思われることもありますが、2025年の本人の証言を紹介した記事では、当時選べる番号が限られていたためだったと説明されています。
【現役時代の経歴】大洋ホエールズで18年間活躍した軌跡
平松政次のプロ野球生活は1967年に始まり、1984年の現役引退まで続きました。
所属球団は大洋ホエールズと横浜大洋ホエールズです。
1978年に球団名が変更されましたが、平松は一貫して横浜を本拠地とする球団でプレーしました。
平松政次の年代別キャリアと転換点出典:日本野球機構、野球殿堂博物館、日本プロ野球名球会、所属先公式プロフィール。
1970年は25勝を挙げて沢村賞を獲得平松のキャリアを象徴するシーズンが1970年です。
この年は25勝19敗、6完封、防御率1.95という成績を残し、沢村賞を受賞しました。
最多勝利のタイトルも1970年と1971年の2度獲得しています。
加えて、1969年から12年連続で2桁勝利を記録しました。
単年の好成績だけでなく、長期にわたって勝ち星を積み重ねたことが、平松を球界を代表するエースに押し上げたのです。
【カミソリシュート】平松政次の代名詞となった魔球の正体
平松政次を語るとき、絶対に外せないのが「カミソリシュート」です。
これは右打者の内角に鋭く食い込むシュートボールで、打者のバットを詰まらせたり、思い切ったスイングを難しくさせたりする球種でした。
大洋のエースとして活躍した平松の代名詞となり、球界でも広く知られるようになりました。
カミソリシュートはどのように誕生したのか2024年10月のFNNプライムオンラインのインタビューで、平松本人が誕生の経緯を語っています。
きっかけは、日本石油時代に練習場を訪れた見知らぬ男性からシュートの投げ方を教わったことでした。
当時は本格的にシュートを投げていたわけではなく、その教えもすぐには実戦で生かされませんでした。
転機が訪れたのは1969年の春季キャンプです。
静岡でのキャンプ中、雨のため体育館で投球練習をしていた際、近藤和彦や近藤昭仁らの打者から、ほかに投げられる球はないのかという趣旨の言葉を受けました。
そこで思い出したのが、以前教わったシュートの投げ方です。
実際に投げてみると、打者が思わずのけぞるほど鋭く変化。周囲の選手や首脳陣を驚かせました。
後年、平松が教えてくれた男性の正体を調べたところ、元巨人投手の藤田元司と慶應義塾大学時代の同級生だったことも分かったといいます。
一般的なシュートとは異なる独特の特徴カミソリシュートの特徴は、単にボールが横に曲がることではありません。
週刊ベースボールONLINEなどの技術解説や、本人のインタビューでは、次のような特徴が紹介されています。
- 縫い目に指をかけない握り方:一般的な投球とは異なる独特のボールの扱い方。
- ストレートに近い腕の振り:打者から球種を見分けにくい投球動作。
- 鋭い内角への変化:右打者の懐へ食い込むような軌道。
- 球威と変化の両立:打者が踏み込んで打つことを難しくする威力。
特に、ストレートと同じような腕の振りから変化球が飛び出す点が、打者にとって厄介でした。
「カミソリシュート」の名付け親は長嶋茂雄さらに興味深いのが、この球の名前を付けた人物です。
FNNプライムオンラインの2024年のインタビューによると、平松本人は、引退後に記者との会話を通じて、カミソリシュートという名称を付けたのが長嶋茂雄だったと知ったそうです。
長嶋が平松のシュートを見て、その切れ味をカミソリに例えたことが名前の由来とされています。
少年時代に憧れた長嶋が、プロ入り後は最大のライバルとなり、最後には自身の代名詞となる球の名付け親にもなっていたのです。
この関係は、平松の野球人生を象徴するエピソードの一つです。
【通算200勝と成績・記録】201勝を達成した巨人キラーの実力
平松政次は、プロ野球18年間で通算201勝を記録しました。
日本プロ野球名球会とNPBの公式記録を照らし合わせると、以下の成績が確認できます。
201勝
NPB通算勝利数・18年間の現役生活 平松政次の通算成績
| 記録項目 | 通算成績 |
|---|---|
| 登板試合 | 635試合 |
| 勝利 | 201勝 |
| 敗北 | 196敗 |
| セーブ | 16 |
| 勝率 | .506 |
| 投球回 | 3360回2/3 |
| 完投 | 145 |
| 完封 | 28 |
| 奪三振 | 2045 |
| 防御率 | 3.31 |
| 与死球 | 120 |
出典:NPB個人年度別成績、日本プロ野球名球会公式プロフィール。
200勝達成は1983年10月21日の巨人戦平松が大きな目標としていた通算200勝を達成したのは、1983年10月21日です。
対戦相手は、少年時代から憧れ続けた巨人でした。
舞台は後楽園球場。36歳1か月での達成でした。
NPBの200勝達成者一覧にも、平松の記録が掲載されています。
この試合は雨の影響を受け、6回裏途中で降雨コールドとなりましたが、平松は勝利投手となり、歴史的な200勝を達成しました。
その後、現役最後の1984年にも1勝を挙げ、最終的な通算成績は201勝196敗16セーブとなりました。
巨人戦で51勝を挙げた「巨人キラー」平松の記録で特に注目したいのが、巨人戦での勝利数です。
野球殿堂博物館の公式プロフィールによると、通算201勝のうち、51勝を巨人から挙げています。
少年時代に憧れていたチームを相手に、これほど多くの勝利を重ねたことは、平松のキャリアを象徴する事実です。
長嶋茂雄との対戦も数々の名勝負を生みました。
2025年のアサ芸プラス掲載記事では、長嶋の対平松通算打率が1割9分3厘だったと紹介されています。
ただし、平松自身は長嶋を簡単に抑えられる相手とは考えておらず、現役晩年まで強い警戒心を持って対戦していたと伝えられています。
平松政次の主なタイトル・表彰- 最多勝利:2回(1970年、1971年)
- 最優秀防御率:1回(1979年)
- 沢村賞:1回(1970年)
- 最優秀投手:2回(1970年、1971年)
- ベストナイン:2回(1970年、1971年)
また、通算120与死球は野球殿堂博物館のプロフィールでセ・リーグ記録として紹介されています。
勝利数だけでなく、投手としての存在感や打者への攻めの姿勢を示す記録も残しました。
【野球殿堂入りと現在】名球会会員としての活動と解説者の経歴
平松政次は現役引退後も、野球界との関わりを続けています。
2017年には野球殿堂入りを果たし、日本プロ野球名球会の会員としても紹介されています。
2017年に野球殿堂入り平松が野球殿堂入りを果たしたのは、2017年1月16日です。
表彰区分はエキスパート表彰でした。
日本野球機構の発表資料によると、当時のエキスパート表彰では有効投票112票に対して84票が当選に必要な基準でした。
平松はちょうど84票を獲得し、星野仙一とともに殿堂入りを果たしています。
ここで押さえておきたいのは、平松がプレーヤー表彰ではなく、エキスパート表彰で選ばれたことです。
現役選手としての数字だけではなく、球界への貢献や野球人としての実績を含めて評価された受賞でした。
日本プロ野球名球会の会員平松は日本プロ野球名球会の公式サイトにも会員選手として掲載されています。
名球会は、日本プロ野球で顕著な記録を残した選手を中心に構成される団体です。
投手の場合、通算200勝以上などが入会基準として知られています。
平松は201勝を達成しており、名球会の投手会員として、そのプロフィールや成績が公開されています。
同サイトには、カミソリシュートの誕生秘話や巨人戦での活躍を扱った動画コンテンツも掲載されています。
引退後は野球解説者として活動1984年の現役引退後、平松は野球解説者として新しいキャリアを歩み始めました。
所属先のフジ・メディア・テクノロジーの公式プロフィールでは、フジテレビ、ニッポン放送、テレビ神奈川などで解説を務めてきた経歴が紹介されています。
主な出演歴には次の番組があります。
- プロ野球ニュース(CSフジテレビONE)
- 野球道(フジテレビ系列)
- SWALLOWS BASEBALL L!VE
- すぽると!
- スポーツ特Q
また、2006年にはNPO法人・横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティの初代理事長に就任。2012年12月にはホエールズ・ベイスターズOB会の会長に就任した経歴も掲載されています。
平松政次は2026年現在どうしている?2026年11月現在、平松政次は79歳です。
所属先の公式プロフィールでは、元プロ野球選手・野球解説者として紹介され、引退後の解説活動や野球界での役職、出演歴などが掲載されています。
現在の人物像を理解するうえでは、現役時代の記録だけでなく、長年にわたって野球解説や球団OB活動に携わってきた点にも注目したいところです。
なお、現役時代のようにマウンドで勝利を重ねる立場から、野球を伝え、球界の歴史を語る立場へと役割が変わったことも、平松のキャリアの大きな特徴です。
【プロの結論】平松政次が球史に残した本当の功績とは
平松政次の実績を評価するとき、通算201勝という数字だけを見るのでは十分ではありません。
注目すべきなのは、次の3つの要素です。
第一に、長期間にわたる安定した成績です。
1969年から12年連続で2桁勝利を記録し、通算3360回2/3を投げました。これは、一時的に活躍した投手ではなく、長期間チームを支えたエースだったことを示しています。
第二に、独自の投球スタイルを確立したことです。
カミソリシュートは、単なる変化球の一つではありません。平松という投手を象徴する個性であり、巨人の強打者たちを相手に存在感を発揮する武器でした。
第三に、憧れの対象をライバルに変えたことです。
長嶋茂雄に憧れていた野球少年が、プロ入り後は長嶋と真剣勝負を繰り広げる投手になりました。しかも、その長嶋がカミソリシュートの名付け親だったというエピソードまで残っています。
平松政次の野球人生は、ドラフト制度による進路の変更、社会人野球での成長、大洋での大活躍、200勝達成、野球殿堂入りと、数々の転換点によって形作られています。
201勝という数字の背景にある長い競技生活と、独自の武器を磨き続けた姿勢こそ、後世に伝えるべき功績です。
【平松政次に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:平松政次の通算成績は何勝ですか?
A1:NPB通算201勝196敗16セーブです。635試合に登板し、2045奪三振、防御率3.31を記録しました。
Q2:平松政次はなぜ巨人に入団しなかったのですか?
A2:少年時代から長嶋茂雄に憧れ、巨人への入団を希望していました。しかし、ドラフト制度の導入で希望がかなわず、中日からの指名も受け入れませんでした。その後、日本石油を経て大洋ホエールズに入団しました。
Q3:平松政次は現在何歳で、何をしていますか?
A3:2026年11月現在79歳です。所属先の公式プロフィールでは野球解説者として紹介されており、フジテレビやニッポン放送などでの解説経歴、野球関連の活動歴が掲載されています。
まとめ:平松政次はカミソリシュートと201勝で球史に名を刻んだ名投手
平松政次は、岡山県高梁市から野球の道を歩み、岡山東商業高校、日本石油を経て大洋ホエールズに入団した名投手です。
巨人と長嶋茂雄への憧れを胸にプロの世界へ飛び込みながら、最終的には大洋の絶対的エースとして活躍しました。
カミソリシュートという独自の武器を確立し、通算201勝、2045奪三振、12年連続2桁勝利という記録を達成。1983年10月21日には、憧れの巨人を相手に通算200勝という節目を迎えました。
2017年の野球殿堂入りも、その功績を象徴する出来事です。
2026年現在も、平松政次の名前は大洋ホエールズの歴史を語るうえで欠かせない存在として残っています。
平松政次の真価は、単に200勝を達成したことではありません。自分だけの武器を磨き、ライバルとの勝負を重ね、18年間にわたって球界の第一線で活躍したことにあります。