田原誠次さんは、1989年9月2日生まれ、宮崎県延岡市出身の元プロ野球投手です。2026年11月現在は37歳。現役時代は右投左打のサイドスロー投手として、読売ジャイアンツの中継ぎを担いました。
日本野球機構(NPB)の選手記録に掲載されている基本プロフィールは次のとおりです。
- 氏名:田原誠次(たはら・せいじ)
- 生年月日:1989年9月2日
- 出身地:宮崎県延岡市
- 身長・体重:181cm・85kg
- 投打:右投左打
- 出身高校:聖心ウルスラ学園高等学校
- 社会人野球:三菱自動車倉敷オーシャンズ
- プロ入り:2011年ドラフト7位
- プロ所属:読売ジャイアンツ
- 現役時代のポジション:投手(中継ぎ)
田原さんの野球人生は、宮崎県の聖心ウルスラ学園高校から始まります。
高校卒業後はプロ野球球団に直接進むのではなく、社会人野球の三菱自動車倉敷オーシャンズに所属しました。
社会人時代には野球だけでなく、三菱自動車の工場で働いた経験もあります。
この経験は、後に巨人を退団して工場勤務を選ぶ際にも生きることになります。
2011年には都市対抗野球にも補強選手として出場。右横手投げの投球フォームと多彩な変化球を武器に、プロのスカウトから評価されました。
そして同年のドラフト会議で、巨人から7位指名を受けます。
ドラフト上位のスター候補ではありませんでしたが、社会人野球で積み重ねた実戦経験を武器に、プロの世界へ進みました。
2011年ドラフト7位から巨人の一軍へ田原さんの強みは、打者との駆け引きにありました。
右打者に対する独特の角度からの投球や、変化球を使ったタイミングの外し方など、力だけに頼らない投球術が持ち味です。
2012年のプロ1年目から32試合に登板し、防御率3.26を記録。新人ながら一軍のブルペンで役割を果たしました。
同年の巨人はリーグ優勝と日本一を達成しています。田原さんも、そのチームを支える中継ぎ投手の一人でした。
【巨人時代の実績】2016年の64試合登板と現役時代の成績

田原誠次さんを語るうえで欠かせないのが、2016年の64試合登板です。
先発投手のように登板日がある程度決まっているわけではなく、試合展開に応じてブルペンから呼ばれる中継ぎ投手。チームが必要とする場面でマウンドに上がる仕事を続けてきました。
2016年はチーム最多の64試合に登板2016年の田原さんは、64試合に登板して4勝3敗、14ホールド、防御率3.46を記録しました。
登板数はチーム最多。中継ぎとして非常に多くの試合で起用されていたことが分かります。
NPBの年度別記録によると、同年の投球回数は54回2/3、奪三振は29。単純な登板数だけでなく、勝ちパターンにつなぐ役割や試合途中の火消しなど、幅広い場面で起用されていました。
田原さんは後年のインタビューで、2016年は登板しなかった試合でもブルペンで肩をつくる機会が多かったと振り返っています。
つまり、64試合という数字だけでは、実際の負担をすべて表せません。
中継ぎ投手は試合に出場しない日でも、いつ呼ばれても対応できるように準備する必要があります。田原さんが後にブルペンの環境改善を訴えた背景にも、この経験がありました。
田原誠次の年度別成績・通算成績NPB公式記録に基づく主な年度別成績をまとめました。
出典:日本野球機構(NPB)個人年度別成績。ホールドは公式記録上の数値。
通算成績を見ると、田原さんは222試合登板、12勝7敗、35ホールド、防御率3.13という記録を残しています。
特筆すべきは、2015年の防御率1.00です。登板数は18試合ながら、失点を抑える安定感を示しました。
また、2017年以降も2018年の防御率2.56など、一定の成績を残しています。
「便利屋」と呼ばれた理由田原さんの現役時代の特徴は、特定の場面だけに限定されず、さまざまな状況で起用されていたことです。
中継ぎ投手には、勝っている場面で登板するセットアッパーや、試合終盤を締める抑えなど、役割の違いがあります。
一方、田原さんは試合展開や相手打者に応じて起用されることが多く、チームの穴を埋める存在でした。
本人も後年のインタビューで、相手を観察し、何を求められているかを考えることが「便利屋」としての役割につながったと語っています。
この観察力と柔軟性は、後の工場勤務でも役立つことになります。
【戦力外通告と引退理由】2020年に巨人を去った経緯
田原さんのプロ野球人生は、2020年11月2日に大きな転換点を迎えます。
巨人が田原さんに対して、翌シーズンの契約を結ばないことを通知しました。
2020年は一軍登板なしで戦力外通告2019年の田原さんは25試合に登板し、2勝2敗、防御率4.32という成績でした。
しかし、2020年は一軍での登板機会がありませんでした。
11月2日、巨人は田原さんを含む支配下選手4人に来季の契約を結ばない旨を通知。育成選手を含めると計14人が対象となる大規模な戦力整理でした。
2016年にチーム最多の64試合に登板した投手が、数年後には一軍のマウンドから遠ざかっていたのです。
ブルペンの環境改善を訴えた契約更改田原さんには、現役時代のもう一つの重要なエピソードがあります。
それが中継ぎ投手の待遇やブルペン環境について、球団側に改善を求めていたことです。
2018年12月の契約更改では、一度契約を保留しました。
日刊スポーツの報道によると、田原さんは3年連続でブルペンの環境改善を訴えていたものの、具体的な変化が見えなかったことを理由に挙げています。
特に問題視していたのは、投手が十分に肩をつくれていない状態で登板を求められるケースでした。
中継ぎ投手は、試合展開に応じて急に登板を告げられることがあります。準備を始めようとしたタイミングで待機を指示され、その後すぐに登板するよう求められることもあったと、本人は振り返っています。
2016年には64試合に登板しただけでなく、143試合中128試合以上で肩をつくったという実感も語っています。
この経験から、球団に中継ぎ陣の補強や運用改善を求めました。
ただし、ここで注意したいのが、球団への改善要求と2020年の戦力外通告を直接結びつける根拠はないという点です。
2026年の著者インタビューでも、田原さん自身が改善要求をしたことが戦力外の理由だったかは分からないと話しています。
仲間から感謝の言葉をもらったこともあり、当時の行動について後悔はないという姿勢を示しています。
引退を決意した理由は年齢と家族戦力外通告を受けた田原さんは、12球団合同トライアウトを受け、現役続行の可能性を探りました。
しかし、NPB球団からのオファーはありませんでした。
2021年3月19日には自身のSNSで引退を報告。翌20日のデイリースポーツが、その内容を報じています。
田原さんが説明した引退理由は、年齢的な時間の制約と家族を守る必要性でした。
プロ野球選手として新しい夢を追い続けるには、残された時間が足りないのではないかと考えるようになったといいます。
さらに妻や子どもたちの生活を守ることも、決断に大きく関係しました。
本人は選手としての野球生活を終える一方、指導者として野球に関わる道には関心を示していました。学生野球の指導資格回復に取り組んでいたのも、そのためです。
つまり、引退は単に野球を続けられなくなったというだけではありません。
家族を支える責任と、自分自身の気持ちを整理する時間を考えたうえでの決断だったのです。
【セカンドキャリアの真相】ハローワークから工場勤務へ
田原誠次さんの引退後の人生で、特に多くの人の関心を集めたのが工場勤務です。
プロ野球選手として9年間プレーした人物が、なぜ工場で働くことを選んだのでしょうか。
その答えは、2023年に本人が執筆した文春野球コラムや、2026年の求人ボックスジャーナルのインタビューに詳しく記されています。
引退直後は家族との時間を優先戦力外通告を受けた直後、田原さんが最初に考えたのは家族のことでした。
現役時代は試合や練習、遠征などで家族と過ごす時間が限られていました。
そのため、引退後の約半年間は仕事をせず、家族と過ごす時間を大切にしました。
子どもの学校行事に参加したり、買い物に出かけたり、日常生活を楽しんだりする日々です。
一方で、生活費や税金の負担を考えると、いつまでも仕事をしないわけにはいきません。
また、田原さんは引退後すぐに野球指導者になることも考えましたが、当時は野球から距離を置きたいという気持ちが強かったと振り返っています。
好きだった野球が、戦力外通告をきっかけに一時的に嫌いになりかけていたのです。
ハローワークに通い、給湯器工場への就職を決める田原さんは2021年ごろ、ワクチン接種会場の誘導スタッフとしてアルバイトを始めました。
それと並行してハローワークに通い、一般企業への就職活動を行います。
プロ野球選手として活動していたため、一般的な会社への就職活動は初めての経験でした。
仕事を探すなかで候補になったのが営業職と工場勤務です。
最終的に工場を選んだ背景には、社会人野球時代に三菱自動車の工場で働いていた経験がありました。
また、2026年のインタビューでは、自宅から通いやすいことも仕事選びの大切な条件だったと説明しています。家族との時間を確保するため、通勤時間を短くしたいという考えがありました。
就職先は、給湯器を製造する工場です。
元巨人の肩書を離れ、一人の工場勤務者として働く工場での勤務時間は、朝8時から夕方17時までが基本でした。
田原さんは製造ラインでの作業に取り組み、以前の工場勤務で経験していたネジ締めなどの作業でも力を発揮しました。
工場には複数の製造ラインがあり、田原さんは周囲の作業を観察しながら仕事を覚えていきます。
その結果、複数のラインに対応できるようになり、人手が足りない場所を補う存在になりました。
このエピソードが興味深いのは、巨人時代の「便利屋」という役割が、野球とは異なる職場でも生きたことです。
本人の2023年のコラムによると、工場長からも頼りにされるようになり、仕事ぶりを評価されていました。
プロ野球選手という過去の肩書だけに頼るのではなく、目の前の仕事を覚え、職場の仲間から信頼を得ていったのです。
工場勤務で野球への気持ちを取り戻す工場勤務は、田原さんにとって単なる生活費を稼ぐための仕事ではありませんでした。
職場の同僚と草野球を楽しんだり、野球の話をしたりするなかで、徐々に野球への嫌悪感が消えていったといいます。
現役時代は結果を求められ、毎日のように競争にさらされていました。
しかし、工場では一人の同僚として働き、仲間との交流を楽しむことができました。
この環境の変化が、野球との向き合い方を見直すきっかけになったのです。
工場勤務を通じて、田原さんは野球を仕事にしていた頃とは違う形で、その魅力を再発見しました。
その後、指導者としての道が開けていきます。
【2026年現在の活動】沖データの野球コーチと初の著書
2026年11月現在、田原誠次さんは福岡市にある沖データコンピュータ教育学院の硬式野球部でコーチを務めています。
工場勤務を経験した後、再び野球の世界に戻った形です。
2022年5月16日に沖データのコーチへ田原さんが沖データコンピュータ教育学院の野球部で指導を始めたのは、2022年5月16日です。
2023年に公開された本人のコラムでは、工場を退職する際、職場への引き継ぎをきちんと済ませてから新しい仕事に移った経緯も紹介されています。
工場長も指導者としての新しい道を理解し、退職を受け入れたといいます。
現在の学校公式スタッフ紹介でも、田原さんは背番号73のコーチとして掲載されています。
学校の公式情報によると、同校は専門学校コンピュータ教育学院に所属する硬式野球部です。単なる学校の部活動ではなく、社会人野球に取り組む環境を持っています。
現在は投手指導だけでなく選手の発掘にも携わる2026年4月12日公開のアサ芸プラスのインタビューでは、田原さん自身が現在の仕事内容について説明しています。
担当は投手コーチだけではありません。有望な学生を探すスカウト活動にも関わっているとのことです。
指導対象は18〜21歳ほどの学生で、社会人野球やプロ野球を目指す選手たちと向き合っています。
田原さんが目指しているのは、沖データからプロ野球選手を輩出することです。
特に、巨人時代の同期だった一岡竜司さんが同校の出身であることにも触れ、次のプロ野球選手を育てたいという目標を語っています。
指導で大切にしているのは選手を褒めること2026年6月4日公開の求人ボックスジャーナルのインタビューでは、田原さんの指導方針も紹介されています。
特に重視しているのが、選手を褒めることです。
プロの世界では、結果が出なければ出場機会を失うことがあります。田原さん自身も、戦力外通告を受けるまでに厳しい競争を経験しました。
その経験があるからこそ、学生の個性や気持ちを尊重しながら接することを意識しているようです。
厳しく指導するだけでなく、適度な距離感を保ち、選手が自分の悩みを相談できる関係を築くことも大切にしています。
これは、単に投球技術を教えるだけではない指導者としての姿勢です。
2026年2月16日発売!初の著書の内容著者:田原誠次/編集・構成:菊地高弘
出版社:カンゼン
発売日:2026年2月16日
224ページ・定価1,980円(税込)
ISBN:978-4-86255-791-9
2026年2月16日、田原さん初の著書がカンゼンから発売されました。
タイトルは『巨人をクビになりハローワークに通った男が、工場勤務で見つけた“本当の幸せ”』です。
2023年に文春オンラインで発表したコラムなどをもとに構成された一冊で、現役時代の経験から戦力外通告後の生活、工場勤務、家族との関係まで幅広く取り上げています。
出版社の紹介によると、坂本勇人さん、菅野智之さん、戸郷翔征さん、阿部慎之助さんら巨人の関係者とのエピソードも収録されています。
章立ては次の2部構成です。
- 第1章「人生は、なんとかなる。」
- 第2章「草食動物の目は、横についている。」
特に注目したいのは、プロ野球選手としての成功だけを語る内容ではないことです。
戦力外通告を受けた後の就職活動や、工場で働くなかで感じたことなど、華やかなプロ野球の舞台裏にある現実が描かれています。
また、2023年の文春野球コラムでは年間最優秀コラム賞を受賞。出版社の刊行案内では、同コラムが累計35万HITを達成したことも紹介されています。
2026年のインタビューで明かした今後の目標2026年4月のアサ芸プラスの取材では、田原さんは指導者としての目標についても語っています。
目指すのは、自分が所属するチームからプロ野球選手を輩出することです。
現役時代には、ドラフト7位という立場から一軍で222試合に登板しました。
その経験を若い選手に伝えることは、技術的な指導だけでなく、プロを目指すうえで必要な心構えを教えることにもつながります。
自分が歩んだ道を、今度は次世代の選手に伝える。田原さんの現在の活動は、現役時代の経験を次の世代へつなぐ仕事になっています。
【結婚・家族】田原誠次の妻や子どもは?家族との生活
田原さんの結婚や家族については、本人が執筆した文春オンラインのコラムや2026年の著書関連インタビューで触れられています。
妻と子どもについて本人が公表していること田原さんは結婚しており、妻と子どもがいます。
2020年に戦力外通告を受けた当時について、本人は妻と息子、娘がいることを明かしています。その後、次男が生まれたことも2026年公開の本人の文章で紹介されています。
したがって、本人が公表した情報からは、妻と3人の子どもがいることが分かります。
引退後に家族との時間を大切にした理由田原さんが引退後の約半年間を家族と過ごしたのは、現役時代に十分な時間を確保できなかったためです。
子どもの学校行事への参加や、家族との買い物など、日常生活を大切にしました。
また、2026年の求人ボックスジャーナルの取材では、仕事を選ぶ際にも家族との時間を重視していたことを明かしています。
自宅から通いやすい職場を選んだ背景にも、家族のそばにいたいという思いがありました。
妻との関係や家族を支える考え方2026年刊行の著書には、家族との関係についても触れられています。
特に、プロ野球選手時代とは収入や生活環境が変わった後も、家族との関係を大切にしてきたことが読み取れます。
一方、結婚した具体的な年月日や妻の職業、子どもたちの詳しいプロフィールなどは、広く公表されている情報ではありません。
田原さんの家族について知るうえでは、本人が公に語っている範囲の情報と、根拠のないネット上の推測を区別することが大切です。
【プロの結論】田原誠次の人生から分かるセカンドキャリアの本質
田原誠次さんの経歴を振り返ると、単純な「元プロ野球選手の転職成功談」では説明できない部分があります。
注目すべきなのは、本人が自分の役割を見つける力を、野球以外の場所でも発揮してきたことです。
1. プロ野球の実績は次の仕事にも生きる田原さんは巨人時代に「便利屋」と呼ばれていました。
さまざまな場面で起用され、チームが必要とする役割を果たしてきた投手です。
工場勤務でも複数の製造ラインを覚え、人手が足りない場所に対応できる存在になりました。
これは、野球の技術がそのまま工場で使えるという意味ではありません。
相手や状況を観察する力、新しい仕事を覚える力、求められた役割を果たす姿勢が、異なる業界でも通用したということです。
2. 引退後に野球から離れる時間も必要だった元プロ野球選手が引退後すぐに指導者になるとは限りません。
田原さんの場合、当初は野球から距離を置きたい気持ちがありました。
工場で働き、野球とは直接関係のない人たちと交流したことで、野球への気持ちを取り戻していきました。
この過程は、好きな仕事を離れた人が、自分の気持ちを整理する時間を持つことの意味を示しています。
3. 引退はキャリアの終わりではなく転換点田原さんは現役引退後、工場勤務を経て、野球指導者になりました。
さらにコラム執筆を通じて新たな才能を発揮し、2026年には自身初の著書を出版しています。
プロ野球選手としてのキャリアは2020年に終わりましたが、その経験は別の仕事や表現活動に生かされています。
現役時代の実績だけで人生の価値が決まるわけではない。 田原さんの歩みは、次の居場所を自分で見つけていくことの大切さを伝えています。
田原誠次の情報を調べるときに押さえたいポイント| よくある疑問・誤解 | 押さえておきたい事実 |
|---|---|
| 現在も工場で働いている? | 工場勤務は過去の経験。現在は野球指導者として活動 |
| 巨人を辞めたのは改善要求が原因? | 本人も因果関係は分からないと説明 |
| 引退後すぐに指導者になった? | アルバイトやハローワーク、工場勤務を経験 |
| 野球界から完全に離れた? | 2022年から学生野球の指導に携わる |
| 2026年に本を出した? | 2月16日にカンゼンから初の著書を発売 |
【田原誠次の現在】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:田原誠次は2026年現在、何をしている?
A1:福岡市にある沖データコンピュータ教育学院の硬式野球部でコーチを務めています。投手指導のほか、有望な選手の発掘にも携わっています。
Q2:田原誠次は巨人時代にどのくらい活躍した?
A2:2011年ドラフト7位で巨人に入団し、通算222試合に登板しました。12勝7敗、35ホールド、防御率3.13を記録。2016年にはチーム最多の64試合に登板しています。
Q3:田原誠次が巨人から戦力外通告を受けたのはいつ?
A3:2020年11月2日です。その後、12球団合同トライアウトを受けましたが、NPB球団からのオファーがなく、2021年3月に現役引退を報告しました。
Q4:田原誠次が工場勤務をしていたのは本当?
A4:本当です。戦力外通告後にハローワークで仕事を探し、給湯器を製造する工場に就職しました。工場では複数の製造ラインを担当していました。
Q5:田原誠次の結婚相手や子どもは?
A5:本人の公開した文章によると、妻と3人の子どもがいます。結婚した年月日や家族の詳しいプロフィールは公表されていません。
Q6:田原誠次の著書はいつ発売された?
A6:2026年2月16日にカンゼンから発売されました。書名は『巨人をクビになりハローワークに通った男が、工場勤務で見つけた“本当の幸せ”』です。
Q7:田原誠次はなぜ中継ぎの環境改善を訴えた?
A7:中継ぎ投手が十分な準備をできないまま登板する状況を改善したいと考えたためです。2018年の契約更改では契約を保留して問題を訴えました。
まとめ:田原誠次の現在は野球指導者、著者として新たな人生へ
田原誠次さんは、2011年のドラフト7位で巨人に入団し、2016年の64試合登板をはじめ、中継ぎ投手として確かな実績を残しました。
一方、2020年には戦力外通告を受け、12球団合同トライアウトを経て現役を引退。ハローワークで仕事を探し、給湯器工場で働くという新しい生活を始めました。
その後、野球への気持ちを取り戻し、2022年5月から沖データコンピュータ教育学院の硬式野球部で指導者として活動しています。
さらに2026年2月には、自身の経験をまとめた初の著書を刊行。プロ野球選手時代の話だけでなく、戦力外通告後の就職活動や家族との生活、工場勤務で得た気づきなども発信しています。
田原さんの人生で印象的なのは、巨人時代も工場勤務時代も、周囲に必要とされる役割を見つけてきたことです。
プロ野球選手という肩書を失っても、新しい職場で信頼を築き、再び野球の世界に戻り、次世代の育成に取り組んでいます。
2026年現在の田原誠次さんは、元巨人の中継ぎ投手という経歴にとどまらず、指導者・コラムニスト・著者として第二の人生を歩んでいる人物です。
その歩みは、プロ野球選手の引退後のキャリアを考えるうえでも、興味深い実例となっています。
主な参照資料:日本野球機構(NPB)個人年度別成績、読売ジャイアンツの2020年戦力外通告に関する報道、デイリースポーツ、文春オンライン、沖データコンピュータ教育学院公式スタッフ紹介、求人ボックスジャーナル、アサ芸プラス、カンゼン刊行案内。