坂本龍馬の妻は、京都出身の「お龍(おりょう)」こと楢崎龍(ならさき・りょう)です。幕末の志士として知られる坂本龍馬を支え、1866年の寺田屋事件では、襲撃の危険をいち早く知らせて夫の命を救った女性として伝えられています。
二人は文久3(1863)年ごろに出会い、慶応2(1866)年ごろに夫婦となったと考えられています。その後、寺田屋事件で負傷した龍馬とともに薩摩・霧島へ湯治旅行に出かけました。ところが、龍馬は翌1867年に暗殺され、お龍は夫を失った後、土佐や京都、東京を経て横須賀で暮らすことになります。龍馬との間に子どもはいたのか、再婚相手は誰だったのかなど、二人の関係には現在も興味深い論点が残されています。
【人物プロフィール】坂本龍馬の妻・お龍とは何者?本名や生涯、人物像を解説

お龍の本名として知られているのは、楢崎龍(ならさき・りょう)です。「お龍」は名前の「龍」に敬称の「お」を付けた呼び方で、一般には「おりょう」と読まれています。
京都の町医師・楢崎将作の長女として生まれたとされ、父は勤王運動に関わった人物でした。国立国会図書館の典拠データでも、楢崎おりょう、西村ツルなどの名称がお龍に関連する別名として登録されています。
なお、お龍の出生については養女説なども伝わっています。横浜市中央図書館のレファレンス資料では、楢崎将作を父とする記述が複数の伝記資料に見られる一方、幼少期に養女として迎えられたという異説も紹介されています。
したがって、歴史上の人物としての呼称は「楢崎龍」、広く知られる名前は「お龍」と整理すると分かりやすいでしょう。
父の死によって一家の生活は一変したお龍の人生を理解するうえで欠かせないのが、父・楢崎将作の死です。
将作は安政5(1858)年、安政の大獄に関連する勤王運動の取り締まりで捕らえられました。翌年に釈放されたものの、文久2(1862)年に病死します。
父を失った一家は経済的に困窮しました。母親は生活を支えるため、志士たちの隠れ家となっていた京都の方広寺に食事などの世話をしに通うようになります。お龍もその場所に出入りしていました。
この方広寺での生活が、後に坂本龍馬との出会いにつながります。裕福な医師の家庭で育った女性が、父の死によって生活環境を変え、幕末の政治活動に関わる人々と接するようになったのです。
お龍の人物像を伝える1865年の重要な手紙お龍の性格を知るうえで重要なのが、慶応元(1865)年9月9日に坂本龍馬が姉の乙女らに宛てた手紙です。
この書簡は京都国立博物館が所蔵する重要文化財「坂本龍馬関係書状」の一つです。龍馬は手紙の中で楢崎龍の家庭環境や人となりを紹介し、家族に彼女を知ってもらおうとしていました。
特に注目されるのは、お龍が妹を救い出したエピソードです。妹がだまされて大阪の遊女屋に売られたことを知ったお龍は、刃物を懐にして相手と争い、妹を取り戻したと書かれています。
この逸話からは、家族を守ろうとする強い意志と、危険を恐れず行動する気質がうかがえます。寺田屋事件で龍馬に危険を知らせた行動にも通じる人物像です。
お龍は単に有名な志士の妻だったのではありません。家族を支え、困難な状況に自ら立ち向かった女性でもありました。
【馴れ初めと結婚の真相】坂本龍馬とお龍はいつ出会い、いつ夫婦になった?
出会いは文久3(1863)年ごろ、京都の方広寺高知県立坂本龍馬記念館の説明によると、龍馬とお龍が出会ったのは文久3(1863)年ごろと考えられています。
場所は京都の方広寺です。父の死後、母親が志士たちの食事の世話をしていたことから、お龍もこの場所に出入りしていました。そこで龍馬と知り合ったとされています。
当時の龍馬は、幕府や諸藩の政治情勢が大きく動くなかで活動していました。お龍との出会いは、龍馬が長崎で亀山社中を結成し、薩長の連携に向けて動いていく時期と重なります。
記念館のFAQでは、出会ったときの年齢を龍馬29歳、お龍23歳と説明しています。ただし、後述するように、お龍の出生年には資料による食い違いがあるため、年齢差を単一の数字で断定することには注意が必要です。
結婚時期は1864年説と1866年説がある二人の結婚時期については、少し複雑な事情があります。
お龍自身の回顧録では、元治元(1864)年に龍馬と結婚したとされています。一方、龍馬の書簡でお龍を妻として明確に記していることが確認できるのは、慶応2(1866)年12月4日の姉・乙女宛ての手紙です。
また、高知県立坂本龍馬記念館は、1866年1月の寺田屋事件後、龍馬がお龍と結婚したと考えられる時期を同年3月ごろと説明しています。
鹿児島県霧島市が公開する年表でも、慶応2年2月12日(新暦1866年3月28日)ごろ、中岡慎太郎の仲人によって結婚を正式に披露したと記されています。
これらを整理すると、交際や夫婦としての関係が始まった時期と、周囲に正式に披露した時期を区別する必要があります。1864年説をただちに否定することも、1866年の書簡だけで結婚日を確定することもできません。
龍馬の手紙が伝える二人の関係慶応元年9月9日の手紙は、二人の関係を考えるうえで重要な一次史料です。
龍馬はお龍の身の上を姉の乙女に説明するだけでなく、お龍に読ませるための小笠原流の礼儀作法の本や和歌の本を送ってほしいと頼んでいます。加えて、乙女の帯や着物をお龍に贈ってほしいという希望も記しています。
この内容からは、龍馬が彼女を一時的な交際相手としてではなく、自分の家族にも紹介したい大切な存在として扱っていたことが読み取れます。
二人の婚姻関係を考える際には、後年の回顧録だけでなく、こうした当時の書簡を併せて読むことが大切です。
【年表・関係図】坂本龍馬とお龍の出会いから結婚、暗殺後まで
二人の関係を時系列で整理すると、出会い、交際、寺田屋事件、結婚、霧島旅行、そして龍馬との死別という流れが見えてきます。
| 年代 | 出来事 | 史料・確認できる内容 |
|---|---|---|
| 文久3(1863)年ごろ | 龍馬とお龍が出会う | 京都の方広寺。高知県立坂本龍馬記念館の説明 |
| 元治元(1864)年 | 結婚したとされる | お龍の回顧録に基づく説明 |
| 慶応元(1865)年9月9日 | 龍馬が乙女にお龍を紹介 | 京都国立博物館所蔵の重要文化財書簡 |
| 慶応2(1866)年1月23日 | 寺田屋事件 | お龍が龍馬に襲撃を知らせ、脱出を助ける |
| 慶応2(1866)年3月ごろ | 結婚を正式に披露したとされる | 霧島市の年表などに記載 |
| 慶応2(1866)年春 | 薩摩・霧島へ旅行 | 塩浸温泉などで湯治。日本初の新婚旅行と紹介される |
| 慶応2(1866)年12月4日 | 乙女に旅行の報告 | 霧島山の様子を絵入りで記した書簡 |
| 慶応3(1867)年11月15日 | 龍馬が近江屋で暗殺される | お龍は当時、下関にいた |
| 明治8(1875)年 | 西村松兵衛と再婚 | 横須賀市の記録では7月2日に入籍 |
| 明治39(1906)年1月15日 | お龍が死去 | 横須賀市大津の信楽寺に墓所がある |
この年表で特に重要なのは、1865年の書簡と1866年の寺田屋事件です。龍馬が姉にお龍を紹介していたこと、そして翌年に妻としての関係が明確になることから、二人の関係が段階的に深まっていった様子が分かります。
また、結婚時期については回顧録と当時の書簡、地域の年表で記録の性質が異なります。結婚を考える際には、出会った時期、実際に夫婦として暮らし始めた時期、正式に周囲へ披露した時期を混同しないことが大切です。
【寺田屋事件と新婚旅行】お龍が龍馬の命を救い、霧島へ向かった理由
寺田屋事件では風呂から飛び出して危険を知らせた慶応2(1866)年1月23日の夜、京都伏見の寺田屋で龍馬が襲撃されました。
このとき龍馬は、薩長同盟成立後に寺田屋で過ごしていました。伏見奉行所の役人らが周囲を取り囲んだことに気づいたお龍は、入浴中だったにもかかわらず、急いで龍馬に危険を知らせたと伝えられています。
龍馬は同行していた三吉慎蔵らとともに脱出し、命を取り留めました。ただし、この襲撃で右手などに負傷しています。
この出来事によって、お龍は龍馬の命を救った女性として歴史に名を残すことになりました。
なお、ここで区別したいのは、1865年の書簡に記された妹の救出と、1866年の寺田屋事件です。前者はお龍自身が妹を救い出したエピソード、後者は龍馬に襲撃を知らせた出来事であり、別々の史実として伝えられています。
霧島への旅は療養を兼ねた夫婦の旅行だった寺田屋事件の後、負傷した龍馬は薩摩藩の保護を受けました。
西郷隆盛や小松帯刀らの勧めもあり、龍馬とお龍は薩摩方面へ向かいます。目的には龍馬の傷を癒やす湯治が含まれていました。
二人が訪れた場所の一つが、現在の鹿児島県霧島市にある塩浸温泉です。霧島市の公式資料によれば、夫妻は慶応2年の旅で塩浸温泉に18日間滞在しました。
この旅は現在、日本で最初の新婚旅行と呼ばれることが多く、霧島市は龍馬とお龍の足跡を観光・歴史資源として紹介しています。
ただし、当時の旅行は現代の新婚旅行とは事情が異なります。寺田屋事件で負傷した龍馬の療養という目的があり、その過程で夫婦が薩摩の景勝地や温泉を訪れたという背景があります。
1866年12月4日の手紙に残された霧島の思い出霧島旅行を知るうえで重要なのが、慶応2(1866)年12月4日に龍馬が姉の乙女へ送った手紙です。
この書簡には、霧島山や高千穂峰を訪れた様子が絵入りで記されています。山道や温泉、旅先での出来事などを姉に伝えており、龍馬の私生活を知る貴重な資料です。
龍馬の文章には、旅を楽しんでいた様子も残されています。
「谷川の流れにて魚をつり、ピストルをもちて鳥をうつなど、実におもしろかりき。」
この手紙は、二人が単に政治活動のために行動をともにしていたのではなく、夫婦として旅行を楽しむ時間も持っていたことを伝えています。
山梨県立図書館のレファレンス記録によれば、手紙の原本は京都国立博物館に所蔵されています。龍馬とお龍の新婚旅行を裏付ける重要な一次史料の一つです。
【龍馬暗殺後のお龍】土佐での生活、再婚相手・西村松兵衛、横須賀での晩年
龍馬暗殺時、お龍は下関にいた慶応3(1867)年11月15日、坂本龍馬は京都の近江屋で襲撃され、中岡慎太郎とともに命を落としました。
当時、お龍は下関の伊藤助太夫邸にいました。そのため龍馬の葬儀には出席していません。
高知県立坂本龍馬記念館の説明によれば、龍馬の死後、お龍はしばらく長州の三吉慎蔵宅などに身を寄せ、翌1868年春に土佐の坂本家へ移りました。
土佐の坂本家を離れ、京都や東京へ龍馬の死後、お龍は夫の実家である土佐の坂本家に入ります。しかし、そこでの暮らしは長く続きませんでした。
記念館の説明では、周囲に知らない人が多かったことや生活習慣の違いなどが背景にあったとされています。お龍は土佐に1年余り滞在した後、妹の君枝が嫁いでいた現在の高知県芸西村に立ち寄り、京都へ戻りました。
その後は江戸・東京方面へ移り、生活の基盤を探すことになります。
龍馬の手紙を焼いたという話も伝わっています。高知県立坂本龍馬記念館は、過去を整理して新しい気持ちで立ち直ろうとしたのではないかという見方を紹介しています。ただし、手紙を焼いた理由については本人の明確な説明が残っているわけではありません。
再婚相手は西村松兵衛。入籍は1875年が有力龍馬の死後、お龍は西村松兵衛(にしむら・まつべえ)と再婚しました。
再婚後のお龍は「西村ツル」と名乗り、横須賀で暮らすようになります。
再婚時期については、明治18(1885)年と記載する書籍も少なくありません。しかし、高知県立坂本龍馬記念館のFAQでは、実際には明治8(1875)年に入籍した可能性が高いと説明しています。
加えて、横須賀市観光情報が紹介する市制施行70周年記念資料「横須賀風物百選」には、明治8年7月2日に西村松兵衛方へ「西村ツル」として入籍したと記されています。
記念館は戸籍原本そのものを確認したわけではないと説明していますが、横須賀市の記録とも一致することから、1875年を再婚・入籍の時期として扱うのが妥当です。
再婚相手との生活と横須賀での晩年西村松兵衛は弘化3(1846)年生まれで、お龍より年下でした。二人がどのように知り合ったのかについては、明治7~8年ごろに出会ったという説や、寺田屋に出入りしていたころから面識があったという説などがあります。
ただし、出会いの経緯や松兵衛の職業については確定していない部分があります。横須賀海軍の御用商人だったという説もありますが、記念館は確証がないとしています。
二人は横須賀で生活し、お龍の妹・光枝の子どもを養子として迎えたと伝えられています。その子は18歳で亡くなりました。
お龍は横須賀で晩年を過ごし、明治39(1906)年1月15日に亡くなりました。墓所は横須賀市大津の信楽寺です。
2026年はお龍の没後120年にあたります。横須賀市は同年10月10~11日に、第38回坂本龍馬の妻・龍子墓前祭を含む「おりょうさんまつり」を案内し、月琴の演奏や関連行事を企画しました。
龍馬の妻として知られるお龍ですが、その後の人生もまた横須賀の地域史に刻まれています。
【子ども・年齢・史料の検証】坂本龍馬とお龍にまつわる5つの誤解
1.龍馬とお龍の間に子どもはいたのか坂本龍馬とお龍の間に、実子はいません。
高知県立坂本龍馬記念館は、龍馬にはお龍との間だけでなく、ほかの女性との間にも子どもはいなかったと説明しています。
龍馬の家督を継いだ人物として知られるのは、姉・千鶴の息子である高松太郎です。明治4(1871)年に養子として坂本家の跡目を相続し、坂本直と改名しました。
したがって、龍馬の家を継いだ人物がいたことと、龍馬に実子がいたことは別の話です。
2.お龍には再婚後の子どもがいたのかお龍と西村松兵衛は、妹・光枝の子どもを養子として迎えたとされています。しかし、その子は18歳で亡くなりました。
これはお龍が龍馬との間に実子をもうけたという意味ではありません。また、養子を迎えたことと実子の有無も区別する必要があります。
3.龍馬とお龍の年齢差は何歳だったのか一般には、龍馬がお龍より年上だったとされています。
高知県立坂本龍馬記念館のFAQでは、二人が出会った文久3年ごろの年齢を龍馬29歳、お龍23歳と説明しています。
一方、お龍の生年には資料による違いがあります。国立国会図書館の典拠データは1841年生としていますが、横須賀市観光情報が紹介する「横須賀風物百選」には、同市に残る除籍簿による嘉永3(1850)年6月6日生まれという記載があります。
こうした記録の違いがあるため、年齢差を一つの数字に固定することは慎重に考える必要があります。記念館が紹介する出会い時の年齢と、生年に関する各種記録は、それぞれの資料の性質を踏まえて読むことが大切です。
4.結婚は1864年と1866年のどちらが正しいのかお龍の回顧録では1864年に結婚したとされています。一方、龍馬の書簡や寺田屋事件後の動きを踏まえ、1866年ごろに夫婦としての関係が正式になったとする説明もあります。
重要なのは、1865年の書簡です。龍馬が乙女にお龍を紹介し、身の上を伝えていることから、少なくともこの時点で二人が親密な関係にあったことが確認できます。
結婚時期を調べる際は、回顧録の記述と当時の書簡を区別し、婚姻の成立と正式な披露を同じ出来事として扱わないことが判断のポイントです。
5.日本初の新婚旅行というのは本当なのか龍馬とお龍の霧島旅行は、日本初の新婚旅行として広く紹介されています。鹿児島県や霧島市の観光資料でも、そのように位置づけられています。
ただし、これは現在の歴史・観光上の呼称です。旅には寺田屋事件で負傷した龍馬の療養という明確な目的もありました。
「日本初の新婚旅行」という言葉だけで現代的なハネムーンを想像するよりも、幕末の政治情勢、夫婦の移動、湯治という当時の事情を含めて理解する方が実態に近づきます。
お龍の生涯を調べるときに確認したい主な史料お龍の生涯を詳しく知りたい場合、特に参考になるのが次の資料です。
- 京都国立博物館:慶応元年9月9日付の坂本龍馬書簡。お龍の人物像や龍馬との関係を知る重要文化財です。
- 高知県立坂本龍馬記念館:出会い、寺田屋事件、結婚時期、暗殺後の暮らし、再婚に関する解説があります。
- 文化遺産オンライン:龍馬関係書状など、歴史資料の概要や文化財としての情報を確認できます。
- 国立国会図書館:楢崎龍の名称や関連する人物典拠、伝記資料の書誌情報を調べられます。
- 横須賀市:お龍の再婚後の暮らし、入籍、墓所に関する地域資料が公開されています。
特に、京都国立博物館所蔵の書簡は、後世の小説やドラマによる人物像と、実際に龍馬が書き残した内容を比較するうえで重要です。
【坂本龍馬の妻・お龍】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:坂本龍馬の妻のお龍は本名で何といいますか?
A1:楢崎龍(ならさき・りょう)です。「お龍」は一般に使われる呼び名です。龍馬の死後、西村松兵衛と再婚してからは西村ツルと名乗りました。
Q2:坂本龍馬とお龍の間に子どもはいましたか?
A2:二人の間に実子はいません。龍馬の跡目を継いだ高松太郎は龍馬の姉・千鶴の息子で、養子として坂本家を継いだ人物です。お龍も再婚後に親族の子どもを養子として迎えたとされています。
Q3:お龍は龍馬の死後、誰と再婚しましたか?
A3:西村松兵衛と再婚しました。横須賀市の資料では明治8(1875)年7月2日に西村家へ入籍したとされています。再婚後は横須賀で暮らし、1906年1月15日に亡くなりました。
まとめ:坂本龍馬の妻・お龍は幕末を生き抜いた強い女性だった
坂本龍馬の妻は、京都出身の楢崎龍、通称お龍です。二人は1863年ごろに出会い、1866年の寺田屋事件を経て夫婦となったと考えられています。
お龍は寺田屋で襲撃の危険を知らせて龍馬の脱出を助け、負傷した龍馬とともに霧島へ湯治旅行に出かけました。龍馬が姉の乙女に宛てた手紙には、二人の旅行の様子が生き生きと残されています。
しかし、龍馬の暗殺によって夫婦の生活は終わりを迎えます。その後のお龍は土佐、京都、東京を経て西村松兵衛と再婚し、横須賀で後半生を送りました。龍馬との間に実子はいませんでしたが、彼女自身の人生には、家族を守るために行動し、時代の変化のなかで生き抜いた一人の女性の姿があります。
2026年はお龍の没後120年です。横須賀の信楽寺に残る墓所や、京都国立博物館が所蔵する龍馬の書簡は、二人の関係を現在に伝える貴重な手がかりとなっています。
坂本龍馬の妻を知ることは、幕末の英雄の私生活を知るだけではありません。龍馬の隣で生き、夫の死後も自分の人生を歩んだ楢崎龍という女性の歴史を知ることでもあるのです。
編集上の重要な補足: お龍の生年については、国立国会図書館の1841年という典拠情報と、横須賀市観光情報が紹介する1850年という除籍簿の記載に食い違いがあります。記事ではこの矛盾を隠さず、年齢差を断定しない構成にしています。これは人物記事の信頼性を保つうえで要点です。