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大阪・あみだ池の謎を解く!和光寺の創建と善光寺伝説、現在の見どころを徹底解説

黒田 亮 黒田 亮 • 更新: • 公開: • 読了約 27 分
目次

大阪市西区北堀江にある「あみだ池」は、浄土宗の寺院・和光寺の境内に現在も残る歴史的な池です。和光寺は元禄11年(1698年)に創建され、長野県の善光寺と深いつながりを持つ寺として知られています。池の名前の由来には、仏教伝来の時代に物部氏によって難波の堀江へ沈められた阿弥陀如来像を、信濃の本多善光が発見したという伝説があります。

しかし、伝説に登場する「難波の堀江」が現在の北堀江にあったのか、善光寺の本尊が実際にこの池から出現したのかについては、歴史研究上の検討が必要です。大阪市の文化財資料、善光寺の公式縁起、大阪府立図書館のデジタルアーカイブなどを手掛かりに、あみだ池の由来、和光寺の創建、あみだ池筋との関係、浪花百景や落語に残る文化的背景を2026年の視点から整理します。

【基本情報】あみだ池とは?大阪市西区北堀江に残る和光寺の名所

あみだ池

あみだ池は、大阪市西区北堀江3丁目にある和光寺の境内に位置しています。池だけを独立した観光施設として捉えるよりも、寺院と一体になった歴史的・宗教的な空間として理解するのが適切です。

和光寺の正式名称は蓮池山智善院和光寺(れんちざんちぜんいんわこうじ)。浄土宗の寺院で、善光寺の阿弥陀如来に関係する伝承を持っています。

大阪府警察の西警察署が紹介する地域案内にも「あみだ池 和光寺」として掲載されており、所在地は大阪市西区北堀江3丁目7番33号です。境内の池と寺院の存在は、現在の地域の歴史を伝えるものとして紹介されています。

あみだ池という名前の由来

池の名前は、阿弥陀如来にまつわる伝説に由来します。

伝承によれば、仏教が日本に伝わった6世紀、仏教を受け入れるかどうかをめぐって蘇我氏と物部氏が対立しました。その際、仏教に反対した物部氏が仏像を難波の堀江に投げ捨てたとされています。

その後、信濃国から来た本多善光が水中に沈んでいた仏像を発見し、持ち帰ったというのが善光寺縁起の中心的な物語です。

この仏像が阿弥陀如来であったことから、発見の地と伝えられる池が阿弥陀池と呼ばれるようになったとされています。

ただし、現在の北堀江にある池が、6世紀の出来事の舞台そのものであったと証明されているわけではありません。池の名称と信仰の歴史、古代の出来事の所在地は、それぞれ分けて理解する必要があります。

和光寺とあみだ池はどちらが先にできた?

ここは意外と見落とされやすいポイントです。

和光寺が建立される以前から、阿弥陀池は信仰の対象になっていました。大阪市立中央図書館の調査資料によれば、延宝3年(1675年)刊行の地誌『芦分船』には、阿弥陀池に向かって拝む人物の姿が描かれています。

つまり、池への信仰が先にあり、その信仰を背景に寺院が建立されたという流れです。寺が池を造ったために阿弥陀池という名前が生まれた、という単純な関係ではありません。

この順序を押さえると、和光寺がなぜ善光寺と結び付いた場所に建立されたのかも理解しやすくなります。

【歴史を徹底検証】善光寺如来の出現伝説と本多善光・物部氏の関係

あみだ池の歴史を理解するうえで欠かせないのが、長野県の善光寺に伝わる善光寺縁起です。

この伝説には、仏教伝来、蘇我氏と物部氏の対立、難波の堀江、本田善光という人物が登場します。大阪の一つの池が、長野の大寺院の歴史と結び付いている点が興味深いところです。

6世紀の仏教伝来と物部氏による仏像投棄

善光寺の公式サイトが紹介する縁起では、欽明天皇13年(552年)、百済の聖明王から仏像が日本に伝えられたとされています。

当時、朝廷では仏教を受け入れるかどうかについて意見が分かれていました。

  • 蘇我稲目:仏教を受け入れる立場を取った人物。
  • 物部尾輿:外来の仏教に反対した物部氏の有力者。
  • 中臣鎌子:善光寺縁起では物部尾輿とともに仏教に反対する人物として登場する。

物部尾輿は、疫病の流行を仏教受容の影響と考え、仏像を難波の堀江に投げ捨てたと伝えられています。

この出来事は『日本書紀』に記された仏教受容をめぐる説話と関係しています。善光寺の公式縁起も、仏像が水中に沈められた経緯を詳しく伝えています。

なお、物部尾輿と物部守屋は別の人物です。尾輿は守屋の父にあたり、後の時代にも物部氏と蘇我氏の対立が続きました。両者を一人の人物として扱わないことが、伝承を正確に理解するポイントです。

本多善光が阿弥陀如来を発見したという伝説

仏像が難波の堀江に沈められた後、物語の中心に登場するのが信濃国の本田善光です。

善光寺の公式縁起によると、善光が都から帰る途中、難波の堀江を通りかかった際、水中から自分の名前を呼ぶ声が聞こえたといいます。

声のする方向を見ると、水中から輝く仏像が出現しました。その仏像が阿弥陀如来であり、善光はその仏像を背負って信濃国へ持ち帰ったと伝えられています。

この仏像を安置した寺院が、現在の長野県長野市にある善光寺の起源になったというのが、善光寺縁起の物語です。

人物名については、本田善光という表記が善光寺の公式縁起で使われています。一方、大阪の地域資料や歴史紹介では本多善光という表記も見られます。同じ伝説上の人物を指す表記の違いとして理解するとよいでしょう。

伝説と歴史的に確認できる事実の違い

ここで重要なのは、善光寺の由来を伝える物語と、歴史資料によって確認できる事柄を区別することです。

善光寺縁起は、寺院の本尊の由来や信仰を伝える宗教的な物語です。長野県立図書館の信州デジタルコモンズにも、江戸時代に刊行された善光寺関連の縁起資料が収録されています。

これらの資料は、善光寺信仰がどのように伝えられてきたかを知るうえで重要ですが、仏像が実際に現在の北堀江の池から引き上げられたことを証明する考古学的な記録とは異なります。

加えて、古代の難波の堀江がどこにあったかについても、複数の説があります。北堀江や南堀江という現在の町名だけを根拠に、古代の堀江の位置を決めることはできません。

大阪市立中央図書館も、現在の堀江地域が古代の難波の堀江であるかどうかについては否定的な見解があると紹介しています。

したがって、あみだ池の魅力は「善光寺の本尊が確実に発見された場所」という断定にあるのではなく、古代の仏教伝来の物語が大坂の地域信仰として受け継がれた点にあります。

【創建の謎】和光寺は元禄11年(1698年)に建立されたのか?

和光寺の創建については、元禄11年(1698年)という年号が重要です。

大阪府警察の地域紹介や浄土宗関係の辞典、大阪市の文化財解説はいずれも、和光寺の正式な建立を元禄11年としています。

開山したのは智善上人です。善光寺とのつながりを持つ人物であり、阿弥陀池への信仰が高まるなかで、当地に寺院が建立されました。

1694年と1698年、創建年が異なる理由

和光寺の歴史を調べると、元禄7年(1694年)という年号も登場します。

大阪市の歴史散歩資料では、元禄7年に四天王寺で善光寺の本尊の出開帳が行われた際、当地に堂を構えたことが和光寺の起こりと説明されています。

一方、大阪市教育委員会の文化財資料では、元禄11年(1698年)に阿弥陀池に善光寺の特別な末寺として和光寺が建立されたと記録されています。

この二つは、寺院形成の初期段階と正式な建立を区別すると理解できます。1694年の堂の建立に始まり、1698年に寺院として整えられたという経緯です。

あみだ池と和光寺の歴史・関係年表
年代 出来事・関係する人物 歴史的な位置づけ
6世紀・欽明天皇13年(552年) 百済から仏像が伝来したという伝承 仏教受容と物部氏による仏像投棄の物語
6世紀以降の伝承 本田善光が仏像を発見 善光寺縁起に伝わる霊験譚
延宝3年(1675年) 地誌『芦分船』に阿弥陀池が登場 和光寺建立以前から池への信仰が存在
元禄7年(1694年) 四天王寺で善光寺の出開帳 和光寺の起源につながる堂の建立
元禄11年(1698年) 智善上人が和光寺を建立 寺院としての正式な創建
19世紀 芳瀧が「浪花百景」の「あみだ池」を描く 江戸後期から明治期の名所文化を伝える
2003年度 銅造阿弥陀三尊立像が大阪市指定文化財に 仏像の美術史的価値が公的に評価される
2026年 和光寺と阿弥陀池が北堀江に残る 歴史・信仰・地域文化を伝える場所

この年表で特に注目したいのは、和光寺の建立以前から阿弥陀池が信仰を集めていたことです。寺院の創建は、池に伝わる善光寺信仰が大坂の町で広がった結果として捉えられます。

和光寺の本尊は善光寺と同じ形式の阿弥陀三尊像

和光寺の歴史を語るうえで、境内の池だけでなく本尊にも注目する必要があります。

大阪市教育委員会の文化財解説によると、和光寺には銅造阿弥陀三尊立像が伝わっています。

これは善光寺式阿弥陀如来と呼ばれる形式の仏像です。中央に阿弥陀如来、左右に観音菩薩と勢至菩薩を配置し、一つの光背に三尊を収める一光三尊形式が特徴です。

仏像の寸法は次のとおりです。

  • 中央の阿弥陀如来像:像高40.9cm
  • 観音菩薩像:像高29.4cm
  • 勢至菩薩像:像高29.7cm

さらに興味深いのは、三尊すべてが同じ時代に造られたわけではない点です。

大阪市の調査では、中央の阿弥陀如来像は面相や髪際線などの特徴から13世紀後半の制作と考えられています。一方、左右の脇侍像は江戸時代の補作と推定されています。

また、光背と須弥台は第二次世界大戦による焼失後、戦後に木製で補われたものです。

このように、和光寺の仏像には鎌倉時代から近世、戦後に至るまでの歴史が重なっています。善光寺との宗教的なつながりだけでなく、近畿地方に残る貴重な善光寺式阿弥陀如来の作例としても価値があります。

【道路名の由来】あみだ池筋と北堀江・難波の堀江の歴史

大阪市内を歩いていると、「あみだ池筋」という南北方向の道路を目にします。

この道路名は、和光寺境内にある阿弥陀池と関係しています。

あみだ池筋の名称は、阿弥陀池の通称で親しまれた和光寺に由来するものです。地域の歴史を紹介する資料でも、この由来が説明されています。

あみだ池筋は池の名前から付けられた道路

あみだ池筋は、大阪市内を南北に結ぶ幹線道路の一つです。

道路の名称は、単に仏教に関係する言葉を採用したものではありません。北堀江にある和光寺、そして境内に残る阿弥陀池という具体的な地域の名所に結び付いています。

つまり、寺院の名前や池の名前が地域の道路名にまで受け継がれているのです。

これは、寺院が宗教施設としてだけでなく、周辺の町の地名や生活文化にも影響を与えてきたことを示しています。

難波の堀江と現在の北堀江は同じ場所なのか

あみだ池の歴史で最も誤解されやすいのが、古代の難波の堀江と現在の北堀江の位置関係です。

『日本書紀』には、仏像が難波の堀江に流し捨てられたという記述があります。

しかし、平凡社の『日本歴史地名大系』では、難波の堀江の所在地について複数の説が紹介されています。

主な候補は次のとおりです。

  • 上町台地の北側を流れていた天満川、現在の大川にあたる流路。
  • 江戸時代に開削された長堀川。
  • 道頓堀川の前身となる堀川。
  • 上町台地を横断する空堀通付近。

このうち、天満川説が有力な説の一つとして紹介されています。

北堀江という町名が残っているからといって、古代の難波の堀江も現在の北堀江にあったと断定することはできません。

一方で、阿弥陀池が善光寺如来出現の地と伝えられ、江戸時代以前から信仰を集めていたことは、地誌や地域資料から読み取れます。

ここには、古代の地理的な場所を特定する問題と、後世に形成された宗教的な聖地の歴史という二つの異なる問題があります。

堀江の町の発展と和光寺の存在

和光寺が建立された元禄11年(1698年)は、大坂の都市開発にとっても重要な時期でした。

河村瑞賢による堀江川の開削と堀江新地の開発が進み、周辺の土地利用が大きく変わっていきました。

大阪ブランド情報局の地域紹介では、堀江はもともと低湿地であり、江戸時代に入ってから堀川沿いを中心に町が形成され、元禄期の開発によって発展したと説明されています。

この都市開発の時期に、境内約1800坪の寺院として和光寺が建立されたことは、宗教と都市形成が密接に関係していたことを示す事例です。

江戸時代の堀江は、運河による物流だけでなく、茶屋や芸能などの娯楽文化でも知られた地域でした。和光寺は、そうした町の変化を長く見守ってきた存在でもあります。

【文化と芸能】浪花百景のあみだ池と上方落語の阿弥陀池

あみだ池の魅力は、寺院や仏教伝来の伝説だけではありません。江戸時代から近代にかけての大阪の名所文化にも、その名前が残っています。

代表的なのが、浮世絵シリーズ『浪花百景』と、上方落語の演目「阿弥陀池」です。

浪花百景に描かれた江戸時代のあみだ池

大阪府立図書館のデジタルアーカイブ「おおさかeコレクション」には、芳瀧が描いた『浪花百景』の「あみだ池」が収録されています。

芳瀧は天保12年(1841年)生まれ、明治32年(1899年)没の上方浮世絵師です。役者絵をはじめ、風景画や書籍の挿絵など幅広い作品を手掛けました。

この浮世絵の解説には、和光寺本堂の北側に池があり、池の中には宝塔が設けられていたことが記されています。

加えて、池の表面には蓮が多く、花の盛りには蓮の香りが周囲に広がったと伝えられています。

ここで注目したいのは、和光寺の山号が「蓮池山」であることです。

蓮は仏教において清浄や悟りを象徴する植物として知られています。阿弥陀如来を本尊とする寺院の池に蓮が広がっていた風景は、信仰の世界観とも自然に結び付いていました。

『浪花百景』は、現在の境内を訪れるだけでは分からない、かつての池の景観を知るための貴重な資料です。

落語「阿弥陀池」はどんな話?

あみだ池の名前は、上方落語の古典演目にも登場します。

演目名は「阿弥陀池(あみだいけ・あみだがいけ)」。別題として「新聞記事」と呼ばれることもあります。

この噺は、新聞を読まない男を、新聞記事を利用した作り話でからかうところから始まります。

ある男が、新聞に載っているかのように事件をでっち上げ、相手を信じ込ませます。ところが、その話が思わぬ形で広がり、今度は自分自身が騒動に巻き込まれていきます。

物語の最後には「阿弥陀が行け」という言葉遊びが登場します。「阿弥陀池」という地名と、阿弥陀仏が行けと言ったという意味を掛け合わせた落ちです。

この演目は、桂文屋が創作した上方噺「阿弥陀池(新作和光寺)」に由来するとされます。TBS落語研究会の落語関連資料でも、その成立と東京への伝播について紹介されています。

東京では「新聞記事」という題で演じられるようになり、同じ噺が地域によって異なる名前で親しまれるようになりました。

実際の阿弥陀池の伝説と落語は別の物語

ここで注意したいのは、落語の「阿弥陀池」が善光寺如来の出現伝説をそのまま演じたものではないという点です。

落語の中心は、新聞をめぐる嘘と勘違い、そして言葉遊びです。

実際の阿弥陀池が持つ宗教的な由来と、落語の演目名が持つユーモラスな意味は異なります。

しかし、地名が芸能の題材となり、さらに別の地域でも演じられるようになったことは、大阪の名所文化が持つ広がりを示しています。

阿弥陀池は、信仰の場所であると同時に、大阪の笑いの文化にも名前を残した場所なのです。

【2026年最新】あみだ池の現在の様子と大阪・北堀江の観光情報

2026年現在、あみだ池は大阪市西区北堀江の和光寺境内に残っています。

大阪府警察の地域案内でも、和光寺と阿弥陀池は現地の地域スポットとして紹介されています。

現在のあみだ池は、かつて『浪花百景』に描かれた江戸時代の景観とは異なります。しかし、池と寺院が一体となった空間には、歴史的な由緒が受け継がれています。

現在の見どころは池と境内の宝塔

境内で注目したいのは、阿弥陀池そのものと、池に設けられた宝塔です。

大阪府立図書館の『浪花百景』の作品解説にも、池の中に宝塔があり、阿弥陀三尊を安置していたと記録されています。

また、大阪府警察の地域紹介には、和光寺と阿弥陀池の石碑を写した写真が掲載されています。

訪れる際は、池だけを撮影対象として見るのではなく、和光寺の本堂や境内全体にも目を向けると、寺院の歴史をより深く感じられます。

あみだ池へのアクセス・最寄り駅

あみだ池へのアクセスは、Osaka Metroを利用する方法が便利です。

項目 内容
名称 阿弥陀池・和光寺
所在地 大阪市西区北堀江3丁目7番33号
最寄り駅 Osaka Metro 西長堀駅
利用路線 千日前線・長堀鶴見緑地線
駅からの道順 西長堀駅から東へ約100m
主な見どころ 阿弥陀池、和光寺本堂、境内の宝塔
周辺の散策先 北堀江、堀江の歴史的な町並み、大阪市立中央図書館周辺

上記の所在地と駅からの距離は大阪市の歴史散歩案内、大阪府警察の地域案内に基づいています。

西長堀駅は千日前線と長堀鶴見緑地線の2路線が利用できます。駅から近いため、大阪市内の歴史散策にも組み込みやすい場所です。

北堀江観光と組み合わせた散策がおすすめ

あみだ池を訪れるなら、周辺の北堀江や堀江の歴史を感じられる場所も一緒に巡ると、散策の楽しみが広がります。

特におすすめなのが、大阪市立中央図書館です。

同図書館は西区北堀江にあり、大阪の歴史や文化に関する資料を所蔵しています。あみだ池や和光寺についてさらに詳しく知りたい人にとって、関連する地域資料に触れられる場所です。

また、堀江周辺には江戸時代の都市開発や水運、商業の歴史を感じられる場所があります。現代の北堀江の街並みと、かつての大坂の町の姿を比較しながら歩くのも面白いでしょう。

歴史を重視するなら和光寺と図書館、街歩きを楽しみたいなら堀江周辺の散策を組み合わせると、目的に合わせた観光ができます。

訪問前に確認したい注意点

和光寺は観光専用施設ではなく、現在も宗教活動が行われる寺院です。

境内を見学する場合は、参拝者や寺院関係者への配慮を忘れないようにしましょう。法要や行事の際には、見学できる場所や撮影について制限が設けられる場合もあります。

また、通常の拝観時間や池の見学条件について、常時自由に見学できると断定できる公式情報は確認できません。訪問当日に寺院側の案内を確認するのが安心です。

静かな宗教施設であることを踏まえ、池や境内を大切に扱いながら歴史に触れることが大切です。

【よくある誤解を検証】あみだ池について知っておきたい歴史の真実

あみだ池には、善光寺の本尊、難波の堀江、和光寺の創建など複数の歴史が重なっています。そのため、インターネット上では異なる時代の出来事が一つの話として紹介されることもあります。

ここでは、特に間違えやすいポイントを整理します。

誤解1:現在の阿弥陀池が6世紀の難波の堀江そのもの

これは確定した事実ではありません。

阿弥陀池が難波の堀江の旧地であるという伝承は、和光寺の由緒や地域の地誌に残されています。しかし、古代の難波の堀江の所在地には複数の説があり、現在の北堀江に限定できる状況ではありません。

誤解2:和光寺は1694年ではなく1698年に突然できた

和光寺の歴史には、元禄7年(1694年)の堂の建立と、元禄11年(1698年)の寺院建立という二つの節目があります。

そのため、1698年を正式な創建年として押さえながら、1694年を前段階の出来事として理解すると、資料間の違いを整理できます。

誤解3:善光寺の本尊が現在の池から発見されたと証明されている

本多善光が仏像を発見したという物語は、善光寺縁起に伝わる宗教的な伝承です。

善光寺の公式サイトにも詳しい物語が掲載されていますが、それは本尊の故事来歴を伝える霊験譚です。現在の池で仏像が発掘されたという考古学的な証拠を示すものではありません。

誤解4:落語「阿弥陀池」は善光寺の歴史を演じた作品

落語の演目は、新聞をめぐる嘘と勘違いを描く滑稽噺です。阿弥陀池の地名を使った言葉遊びが中心であり、仏像の出現伝説をそのまま再現した作品ではありません。

このように、地名の由来、宗教的な伝承、江戸時代の史料、近代の芸能作品を区別すると、あみだ池の歴史がより立体的に見えてきます。

【FAQ】あみだ池に関するよくある質問

Q1:あみだ池は大阪のどこにありますか?
A1:大阪市西区北堀江3丁目にある和光寺の境内です。住所は大阪市西区北堀江3丁目7番33号で、Osaka Metro西長堀駅から東へ約100mの場所にあります。

Q2:和光寺はいつ創建されましたか?
A2:正式な創建は元禄11年(1698年)です。智善上人によって建立されました。元禄7年(1694年)には、善光寺の出開帳に関連して当地に堂が設けられたという記録もあります。

Q3:あみだ池と長野の善光寺はどのような関係がありますか?
A3:善光寺縁起によると、仏教伝来の時代に難波の堀江へ沈められた仏像を本田善光が発見し、信濃に持ち帰ったと伝えられています。阿弥陀池は、その仏像が出現した場所とされる伝承を持っています。

Q4:物部氏はなぜ仏像を池に沈めたのですか?
A4:善光寺縁起では、仏教を受け入れることに反対した物部尾輿が、疫病の流行を仏教受容と結び付け、仏像を難波の堀江に投げ捨てたと説明されています。これは仏教伝来をめぐる歴史的な対立に関連する伝承です。

Q5:あみだ池筋の名前は何に由来していますか?
A5:北堀江にある和光寺の通称「あみだ池」に由来しています。寺院境内の池の名前が、大阪市内の南北幹線道路の名称として受け継がれています。

Q6:あみだ池は現在も残っていますか?
A6:はい。大阪市西区北堀江の和光寺境内に残っています。かつて『浪花百景』に描かれた池で、境内の宝塔とともに歴史的な景観を伝えています。

Q7:あみだ池は落語にも登場しますか?
A7:はい。上方落語に「阿弥陀池」という演目があります。新聞記事をめぐる嘘と勘違いを描いた噺で、「阿弥陀が行け」という言葉遊びが見どころです。東京では「新聞記事」という別題でも演じられます。

Q8:あみだ池を見学するのにおすすめの時期はありますか?
A8:境内の見学について季節ごとの公式なおすすめ時期は確認できません。『浪花百景』には蓮の花が盛りを迎えた池の風景が記録されているため、歴史的な景観を想像しながら訪れるのも楽しみ方の一つです。

まとめ:あみだ池は大阪の信仰と歴史、文化をつなぐ場所

大阪市西区北堀江のあみだ池は、和光寺の境内に残る歴史的な池です。

その背景には、長野県の善光寺に伝わる阿弥陀如来の出現伝説、物部氏と蘇我氏による仏教受容をめぐる対立、そして元禄11年(1698年)の和光寺創建という歴史があります。

また、阿弥陀池は寺院の境内にとどまらず、あみだ池筋という道路名や、芳瀧の浮世絵『浪花百景』、上方落語の演目「阿弥陀池」にもその名前を残してきました。

こうしたつながりを整理すると、あみだ池が単なる古い池ではなく、大阪の宗教文化、都市開発、芸能文化を横断する存在であることが分かります。

【プロの結論】あみだ池を理解するための3つの視点

第一に、伝説と歴史的事実を区別すること。善光寺如来が難波の堀江から出現したという物語は、長い信仰の歴史を持つ善光寺縁起に基づいています。一方、現在の阿弥陀池が古代の難波の堀江そのものだったという地理的な証明はありません。

第二に、1698年という創建年だけで歴史を区切らないこと。1675年の『芦分船』、1694年の堂の建立、1698年の和光寺創建という流れを見ることで、池への信仰が寺院の成立につながった過程を理解できます。

第三に、現在の境内と歴史資料を一緒に見ること。実際に和光寺を訪れ、池や宝塔を見学した後に『浪花百景』や大阪市の文化財資料を確認すると、江戸時代の景観や善光寺式阿弥陀如来の歴史をより深く理解できます。

2026年の今も、あみだ池は北堀江の町に残っています。古代の伝説から江戸時代の寺院建立、近代の浮世絵や落語まで、時代ごとの記憶が重なった場所です。大阪の歴史を深く知りたい人にとって、和光寺とあみだ池は、ぜひ訪れておきたい地域の文化遺産です。

主な参考資料
  • 大阪市教育委員会「和光寺」「銅造阿弥陀三尊立像(和光寺)」
  • 大阪市立中央図書館「阿弥陀池と長野県の善光寺の関係について」
  • 大阪府立図書館「おおさかeコレクション・浪花百景 あみだ池」
  • 善光寺公式サイト「善光寺縁起」
  • 新纂浄土宗大辞典「阿弥陀池」「和光寺」
  • 平凡社『日本歴史地名大系』「難波の堀江」「和光寺」
  • 大阪府警察「阿弥陀池 和光寺」
  • TBS落語研究会「新・落語掌事典」

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黒田 亮
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スポーツ紙で15年の記者歴。試合結果と記録は球団・リーグの公式記録とNPB発表で照合し、移籍報道は球団の公式コメントが出るまで断定しません。

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