高橋一三(たかはし・かずみ)は、読売ジャイアンツのV9時代を支えた伝説的な左腕投手です。1969年に22勝、1973年に23勝を挙げ、プロ野球を代表する投手に贈られる沢村賞を2度受賞。巨人と日本ハムで19年間プレーし、通算167勝、防御率3.18という輝かしい成績を残しました。
その一方で、1975年の張本勲との大型トレード、日本ハム移籍後の活躍、アニメ『巨人の星』の主人公・星飛雄馬の投球フォームのモデルとされる逸話、さらには堀内恒夫との深い関係や山梨学院大学での指導歴など、選手生活以外にも興味深い足跡があります。2015年に69歳で亡くなった高橋一三の生涯を、2026年時点で確認できる日本野球機構(NPB)の公式記録や球団発表、野球専門メディアの記録とともに振り返ります。
【基本プロフィール】高橋一三の読み方・生年月日・出身地と野球人生

高橋一三は「たかはし・かずみ」と読みます。名前の「一三」は「いちぞう」や「かずみ」などと読めそうですが、正しい読み方は「かずみ」です。
1946年6月9日、広島県に生まれました。高校は北川工業高校(現・広島県立府中東高校)で、1965年に読売ジャイアンツへ入団。V9が始まった年にプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせています。
日本野球機構の個人年度別成績に掲載されている基本プロフィールは次のとおりです。
- 氏名:高橋一三(たかはし・かずみ)
- 生年月日:1946年6月9日
- 出身地:広島県
- 出身高校:北川工業高校(現・府中東高校)
- 身長・体重:178cm・78kg
- 投打:左投左打
- 所属球団:読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズ
- プロ在籍期間:1965年~1983年
- 現役引退:1983年
- 死去:2015年7月14日(69歳)
プロ入り当初から完成された投手だったわけではありません。力のある速球を持ちながら制球に苦しみ、若手時代には伸び悩んだ時期もありました。
その状況を変えたのが、投球の幅を広げる変化球の習得です。ストレートとカーブを中心とした投球から、右打者の外角へ逃げるスクリューボールを身につけたことで、先発投手として大きく成長しました。
この変化が1969年の大躍進につながり、やがて巨人の左のエースという評価を確立することになります。
【巨人V9の立役者】1969年22勝・1973年23勝と沢村賞2回の実力
高橋一三を語るうえで欠かせないのが、1965年から1973年まで続いた巨人のV9時代です。
当時の巨人は、王貞治や長嶋茂雄を中心とする強力打線に加え、投手陣にも優秀な選手がそろっていました。その中で高橋は左のエースとして活躍し、右のエース・堀内恒夫とともにチームを支えました。
1969年:22勝5敗で初の沢村賞高橋一三が投手として大きく飛躍したのが1969年です。
この年は45試合に登板し、22勝5敗、防御率2.21、勝率.815という圧倒的な成績を記録しました。19完投も記録し、先発投手としての責任を果たしています。
最多勝利と最高勝率を獲得し、初めて沢村賞にも選ばれました。巨人がV5を達成したシーズンに、投手陣の中心として大きな役割を果たしたのです。
同年11月の日本シリーズでは阪急ブレーブスとの第6戦に完投勝利。巨人の5年連続日本一を決める試合で勝利投手となり、勝負どころでの強さも印象づけました。
1973年:23勝13敗で2度目の沢村賞もう一つの大きな頂点が1973年です。
この年の高橋は45試合に登板し、23勝13敗、防御率2.21、238奪三振を記録しました。23勝は自身のキャリアハイであり、奪三振数もリーグ最多です。
この活躍によって2度目の沢村賞を受賞。V9最後のシーズンを象徴する投手の一人となりました。
特に注目されるのが、阪神との最終戦です。勝ったチームがリーグ優勝を決めるという緊迫した試合で、高橋は先発を任されました。結果は9対0の完封勝利。巨人の9年連続日本一という歴史的な偉業につながる重要な登板でした。
通算167勝はどれほどすごい記録なのかNPBの公式個人年度別成績によると、高橋の現役19年間の通算成績は次のとおりです。
- 登板:595試合
- 勝利:167勝
- 敗戦:132敗
- セーブ:12
- 投球回:2,778回
- 奪三振:1,997
- 完投:128
- 完封:26
- 通算防御率:3.18
- 通算勝率:.559
167勝という数字は、単に一時期の好調だけで積み上げられるものではありません。長期間にわたり先発として試合を任され、投手として安定した働きを続けた証拠です。
主なタイトル・表彰は、最多勝1回、最高勝率1回、最多奪三振1回、沢村賞2回、ベストナイン2回などです。
1969年と1973年という異なるシーズンに沢村賞を獲得したことも、高橋の実力を示しています。単年の突出した成績だけでなく、V9という長い時代の中で継続的に力を発揮した投手でした。
【投球フォームと星飛雄馬】高橋一三がモデルとされる理由とスクリューボール
高橋一三には、プロ野球ファン以外にも知られる逸話があります。それが、人気野球漫画・アニメ『巨人の星』の主人公、星飛雄馬の投球フォームのモデルになったという話です。
星飛雄馬のモデルは高橋一三だったのかこの話は、アニメ版『巨人の星』における投球フォームについて語られるものです。
当時の巨人の左のエースとして活躍していた高橋のダイナミックな投球動作が、星飛雄馬のフォームを描く際の参考になったとされています。野球専門メディアのVICTORYや日刊スポーツの人物紹介でも、この関係が取り上げられています。
ただし、ここで押さえておきたいのは、モデルとされる対象が主にアニメ版の投球フォームだということです。星飛雄馬という架空のキャラクターの生い立ちや性格、物語全体が高橋の人生をモデルにしているという意味ではありません。
当時の実在するプロ野球選手の動きをアニメーションに取り入れたという点で、野球と映像作品の興味深い接点といえます。
特徴的だったダイナミックなオーバースロー高橋の投球フォームは、真上から力強く投げ下ろすオーバースローが特徴でした。
右手のグラブを高く掲げ、左腕を大きく振り下ろす動作には迫力があり、当時の野球ファンにも強い印象を残しました。日刊スポーツの追悼記事でも、このダイナミックなフォームが特徴として紹介されています。
速球には力があり、落差の大きなカーブも武器でした。しかし、彼の投球術を語るうえで特に重要なのはスクリューボールです。
スクリューボールが投手としての転機になった高橋がスクリューボールを身につけたのは、プロ入り2年目の1966年ごろです。
週刊ベースボールの追悼記事によると、当時の藤田元司コーチからシュートを試すよう助言されたことがきっかけでした。左腕投手がシュート系の球を投げることには当時珍しさもありましたが、高橋は投げ方を工夫し、独自の変化球として磨いていきました。
その球は右打者の外角へ逃げるように変化しながら落ちる軌道を描きます。打者にとっては芯でとらえにくく、引っ掛けた内野ゴロを誘いやすい球でした。
森祇晶氏も、高橋が入団したころは速球の威力がある一方、制球に課題があったと振り返っています。そしてスクリューを習得してから、打たせて取る投球ができるようになり、飛躍につながったと評価しています。
つまり、高橋一三の成功は、単に速い球を投げる能力だけで実現したものではありません。自分の弱点を補う変化球を身につけ、投球スタイルそのものを進化させたことが大きな要因でした。
【張本勲とのトレード】1975年の巨人退団と日本ハム移籍の経緯
高橋一三のキャリアには、1975年オフの大型トレードという大きな転換点があります。
1975年11月25日、巨人と日本ハムの間で交換トレードが発表されました。巨人から高橋一三と富田勝が移籍し、日本ハムから張本勲が巨人に加入する1対2のトレードです。
当時の球界でも大きな話題となった取引でした。
なぜ巨人は高橋一三を放出したのか背景にあったのは、1975年の巨人の成績です。
長嶋茂雄が監督に就任した初年度、巨人は球団史上初の最下位に沈みました。チームの立て直しが急務となり、打線を強化するために球界屈指の安打製造機だった張本勲の獲得を目指したのです。
一方、日本ハム側にも事情がありました。週刊ベースボールが掲載した張本本人へのインタビューによると、張本は親会社の交代やチーム方針の変化を背景に、当時の球団を離れることになりました。
したがって、このトレードは単純に高橋の実力が評価されなくなったために行われたものではありません。巨人の打線強化と、日本ハム側のチーム再編という双方の事情が重なった結果でした。
トレード後の日本ハムで再び活躍日本ハムへ移籍した高橋は、1976年に10勝を記録。新天地でも先発投手として存在感を示しました。
そして1981年には14勝6敗、防御率2.94を記録。日本ハムのリーグ優勝に大きく貢献しています。
巨人時代のように毎年20勝を挙げる投手ではなくなっていましたが、豊富な経験と投球術を生かし、チームを支える存在として活躍しました。
高橋一三のキャリアと関係者の歩みを年表で整理高橋一三の人生を理解するうえでは、所属球団だけでなく、同時代の人物や野球界の出来事との関係も重要です。
| 時期 | 人物・球団 | 出来事・実績 | 意味・関係 |
|---|---|---|---|
| 1946年 | 高橋一三 | 広島県で誕生 | 後の巨人V9左腕 |
| 1965年 | 読売ジャイアンツ | 北川工から入団 | V9時代の始まり |
| 1969年 | 堀内恒夫・巨人 | 22勝5敗、沢村賞初受賞 | 右の堀内、左の高橋の両輪 |
| 1973年 | 巨人・阪神 | 23勝、沢村賞2度目の受賞 | V9達成を支える完封勝利 |
| 1975年11月 | 張本勲・富田勝 | 張本との1対2トレード | 高橋が日本ハムへ移籍 |
| 1981年 | 日本ハム | 14勝を挙げリーグ優勝に貢献 | 移籍後も主力投手として活躍 |
| 1983年 | 日本ハム | 現役引退 | 19年間のプロ生活に幕 |
| 2009~2014年 | 山梨学院大学 | 硬式野球部監督を歴任 | 大学野球の指導者として活動 |
| 2015年 | 高橋一三 | 7月14日、多臓器不全で死去 | 69歳で生涯を終える |
この年表からも分かるように、高橋のキャリアは巨人時代だけで完結していません。日本ハムでの再起、指導者としての活動まで含めて評価する必要があります。
【堀内恒夫との関係と引退後】巨人・日本ハムの指導者から山梨学院大学監督へ
高橋一三と堀内恒夫は、巨人V9時代を象徴する投手コンビでした。
堀内が右投手、高橋が左投手という左右の違いだけでなく、両者は互いに信頼し合う関係でもありました。高橋が左のエース、堀内が右のエースとして投手陣を引っ張ったことは、巨人の長期的な強さを支える重要な要素でした。
堀内恒夫とは野球でも私生活でも親しい間柄週刊ベースボールの追悼記事では、堀内が高橋との親しい関係について振り返っています。
「一三さんとはよく一緒に門限を破ったけど、いつも怒られるのはオレばかり。でも2人は本当にウマが合った」
このエピソードからは、単に同じチームでプレーした同僚というだけでなく、互いに気心の知れた存在だったことがうかがえます。
2004年には堀内が巨人の監督に就任。高橋はそれまでの2軍コーチから2軍監督となり、堀内体制を支えました。現役時代に築いた信頼関係が、指導者として再び同じチームで働く際にも生きていたのです。
巨人と日本ハムで投手コーチ・2軍監督を歴任1983年に現役を引退した高橋は、翌1984年以降、指導者としてのキャリアを歩み始めました。
巨人や日本ハムで投手コーチを務め、巨人では2軍コーチ、2軍監督なども歴任しました。
現役時代に培った投球術や、制球に苦しんだ経験から得た知識は、若い投手を指導するうえでも役立ったと考えられます。
日刊スポーツの追悼記事では、若手選手が高橋の独特な投球フォームをまねると、本人も一緒になって笑っていたというエピソードが紹介されています。実績のある元エースでありながら、後輩に対して親しみやすい人物だったことが伝わります。
2009年に山梨学院大学硬式野球部監督へ就任高橋の指導者人生で特筆すべき出来事が、2009年の山梨学院大学硬式野球部監督への就任です。
山梨学院の広報資料によると、2009年3月23日に就任会見が行われ、4月1日付で監督に就任しました。
当時は元プロ野球選手が大学野球部の監督を務めるための資格認定が必要でした。高橋は日本野球協会から特別審査による資格認定を受け、大学野球の指導者として新たな一歩を踏み出しています。
就任時に掲げた目標は、関甲新学生野球リーグで優勝争いに加わり、大学選手権への出場を目指すことでした。
「チームを関甲新リーグの優勝争いに絡むチームに育て、大学選手権に出場するよう一歩一歩進めていきたい」
これは山梨学院の2009年3月の就任会見資料に掲載された高橋本人の抱負です。
その後、2014年4月に体調不良を理由に監督を退任しました。プロ野球で培った経験を学生野球へ伝える活動は、約5年間にわたりました。
高橋一三の功績は、167勝や沢村賞2回という記録だけではありません。現役を退いた後も、プロと大学野球の両方で後進の育成に携わった点にも価値があります。
【死因・晩年・2026年最新情報】高橋一三はなぜ亡くなったのか
高橋一三は2015年7月14日、東京都内の病院で亡くなりました。享年69歳でした。
2015年7月15日、読売ジャイアンツが公式に死去を発表。発表によると、亡くなったのは14日午後4時59分で、死因は多臓器不全でした。
死因は多臓器不全と球団が発表訃報が最初に報じられた段階では、日刊スポーツなどの初報に死因は不明と記載されていました。その後、巨人が正式に発表した内容では、多臓器不全とされています。
そのため、高橋一三の死因を確認する際には、初報ではなく、翌15日に公表された球団発表を基準にするのが適切です。
体調面では、山梨学院大学の監督を務めていた2014年4月に退任しています。報道では体調不良が理由とされており、晩年は療養生活を送っていました。
2015年以降、現在までの活動と功績2026年11月現在、高橋一三はすでに亡くなっており、本人による新たな活動や近況はありません。
一方、NPBの公式個人成績には、2025年シーズン終了時点の記録として高橋の投手成績が掲載されています。2026年時点でも、167勝、防御率3.18、1,997奪三振という実績は、プロ野球の歴史に残る記録です。
また、彼の功績を評価する際には、次の3つの視点が欠かせません。
- 巨人V9への貢献:右の堀内恒夫とともに投手陣の中心を担い、1969年と1973年の沢村賞受賞など、チームの黄金時代を支えた。
- 日本ハムでの再起:大型トレードによる移籍後も実績を残し、1981年のリーグ優勝に貢献した。
- 指導者としての功績:巨人、日本ハム、山梨学院大学で後進の育成に関わり、野球界に経験を伝えた。
特に、巨人から日本ハムへの移籍を単なるキャリアの終わりと捉えるのは適切ではありません。移籍後にも14勝を挙げて優勝に貢献しており、環境が変わっても実力を発揮した投手だったことが分かります。
【高橋一三に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:高橋一三の読み方は何ですか?
A1:たかはし・かずみです。1946年6月9日生まれで、広島県出身の元プロ野球投手です。
Q2:高橋一三の通算成績と沢村賞の受賞回数は?
A2:NPB公式記録では595試合に登板し、167勝132敗12セーブ、防御率3.18、1,997奪三振を記録しています。沢村賞は1969年と1973年の2回受賞しています。
Q3:高橋一三は星飛雄馬のモデルだったのですか?
A3:アニメ版『巨人の星』における星飛雄馬の投球フォームのモデルとされています。高橋のダイナミックなオーバースローが参考にされたという逸話が、野球専門メディアなどで紹介されています。
まとめ:高橋一三の167勝と巨人V9への貢献は今も色あせない
高橋一三は、巨人V9時代を支えた左のエースとして、プロ野球の歴史に名を残した投手です。1969年の22勝、1973年の23勝、そして2度の沢村賞受賞は、その実力を象徴する記録です。
張本勲とのトレードによる日本ハム移籍後も活躍を続け、1981年には14勝を挙げてリーグ優勝に貢献。現役引退後は巨人や日本ハムで指導者を務め、最後は山梨学院大学で学生野球の育成に取り組みました。
2015年7月14日に69歳で亡くなりましたが、通算167勝、防御率3.18、沢村賞2回という実績は、現在もNPBの公式記録に残っています。
【プロの結論】高橋一三を評価するなら3つの実績に注目高橋一三の野球人生を評価する際には、次の3点を押さえることが大切です。
第一に、V9時代の左右のエースという役割です。堀内恒夫とのコンビで巨人の黄金時代を支え、優勝が決まる重要な試合でも結果を残しました。
第二に、投球スタイルの進化です。速球とカーブだけではなく、スクリューボールを習得したことで投球の幅を広げました。自分の課題を技術で克服した点は、現代の野球選手にも通じるものがあります。
第三に、移籍後と引退後の活動です。日本ハムで優勝に貢献し、引退後も指導者として野球界に携わりました。選手としてのピークだけで人物を評価しないことが、高橋一三の本当の功績を理解する鍵になります。
高橋一三は、単なる巨人V9時代の名投手ではありません。変化球を武器に自らの投球を進化させ、異なる球団でも結果を残し、後進の育成にも尽力した野球人でした。その167勝は、昭和のプロ野球を支えた左腕の確かな足跡として、2026年以降も語り継がれていくでしょう。