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【しかみ像とは】読み方・正式名称・徳川美術館に所蔵される本物の姿

桐島 奈緒 桐島 奈緒 • 更新: • 公開: • 読了約 18 分
目次

しかみ像は、徳川家康を描いた肖像画の一つで、正式な作品名は「徳川家康画像(三方ヶ原戦役画像)」とされる。所蔵先は愛知県名古屋市の徳川美術館である。

「しかみ像」の漢字表記は「顰像」。読み方は「しかみぞう」だ。「顰」という漢字には顔をしかめる、眉をひそめるという意味があり、作品に描かれた家康の険しい表情に由来する呼び名として定着している。辞書でも「顰める」は「しかめる」と読む。

現存する作品の基本情報

徳川美術館の作品データによると、現存する肖像画は絹に彩色した掛軸形式の一幅。作者は特定されておらず、制作年代は江戸時代の17世紀とされている。



作品名

徳川家康画像(しかみ像)

別称

徳川家康三方ヶ原戦役画像・顰像


所蔵先
徳川美術館(愛知県名古屋市)


制作年代
江戸時代・17世紀


作者
不詳


材質・技法
絹本著色


本紙の寸法
縦37.8cm・横21.8cm


作品の形態
掛軸・一幅


出典:徳川美術館収蔵品データ、徳川美術館イメージアーカイブ。

16世紀と17世紀、制作年代が異なる情報の理由

しかみ像の制作年代を調べると、情報に食い違いがあることに気づく。文化庁の文化遺産オンラインでは「桃山・16世紀」と掲載されている一方、徳川美術館の現在の作品情報と同館の学芸員による研究論文では「江戸時代・17世紀頃」とされている。

この違いは見逃せない。徳川美術館の学芸員・原史彦氏は、作品の描法などから、1572年の三方ヶ原の戦い当時に制作されたものではなく、17世紀頃の作品と考える見解を示している。したがって、制作年代を判断する際には、所蔵館の最新の作品解説と研究成果を優先して確認する必要がある。

【1572年の史実】武田信玄と徳川家康が激突した三方ヶ原の戦い

しかみぞう

しかみ像の由来を理解するには、まず1572年に起きた三方ヶ原の戦いを押さえておきたい。この合戦自体は確かな歴史的出来事であり、徳川家康にとって大きな敗北となった。

武田信玄の西上作戦と家康の苦境

元亀3年(1572年)、甲斐の武田信玄は遠江への侵攻を開始した。背景には、武田氏と徳川氏の対立や、信玄が京都方面への進出を目指した政治・軍事的な動きがあった。

当時の家康は浜松城を拠点としていた。武田軍は遠江の諸城を攻略しながら進軍し、やがて浜松城付近に迫る。家康は織田信長からの援軍を含む軍勢を率いて出陣し、三方ヶ原台地で武田軍と対峙した。

合戦が起きたのは1572年12月22日。兵力や戦術で優位に立った武田軍は徳川軍を圧倒し、家康は浜松城へ退却した。国立公文書館が公開する『当代記』にも、家康が出陣したものの合戦で敗れ、浜松方に多数の戦死者が出たことが記されている。

家康はなぜ敗れたのか

この戦いを単純に家康の慢心だけで説明することはできない。

国立公文書館の解説では、浜松城にいた家康が織田方の援軍を含めた軍勢で武田軍に挑んだものの、大敗を喫した経緯が紹介されている。武田軍の侵攻によって遠江の戦況が悪化していたことも、家康にとって大きな問題だった。

徳川美術館の原氏の研究論文も、三方ヶ原の戦いに関する複数の歴史記録を比較している。家康の出撃に対して家臣や援軍側に反対意見があったという構図は共通するものの、家康自身が敗戦を後悔し、反省したという記述は確認できないと指摘する。

つまり、三方ヶ原で家康が敗北したことは史実だが、その敗北を家康がどのように受け止めたかについては、しかみ像の伝承とは別に考える必要がある。

【自戒説の真相】しかみ像は敗戦直後に描かれた肖像ではなかった?

しかみ像について最も重要な論点が、敗戦を忘れないために家康自身が描かせたという自戒説である。

徳川美術館の公式解説は、この伝承について明確に「史料的な根拠はありません」と説明している。これは単に古い記録が見つかっていないというだけではない。作品の制作年代や尾張徳川家の記録を調べると、三方ヶ原の戦いと結びつける説明が後世に成立した経緯が見えてくる。

1936年に浮上した三方ヶ原敗戦説

徳川美術館の原史彦氏が発表した研究論文「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」は、しかみ像の由来を検証するうえで重要な研究資料だ。『金鯱叢書』第43輯に収録されたこの論文では、尾張徳川家の蔵帳や新聞記事、過去の作品目録などを照合している。

その研究で注目されるのが、1936年(昭和11年)という時期だ。

原氏によると、徳川美術館の開館前まで、この作品は三方ヶ原の敗戦を描いたものとして認識されていたわけではなかった。1935年の美術館開館直前の目録では、長篠の戦いに関係する陣中画像として扱われていた記録がある。

ところが、1936年1月の新聞報道では、作品が三方ヶ原の敗戦で苦境に陥った家康を描いたものとして紹介されるようになる。さらに同月の関係者による座談会でも、敗戦の記念として子孫への戒めに残された肖像という説明が登場した。

この段階では、現在広く知られている「家康が自戒のために描かせた」という物語の原型が形成されていたと考えられる。

1972年に現在の自戒説が定着

その後、しかみ像の説明はさらに具体的になった。

原氏の研究によれば、1972年刊行の徳川美術館の名品図録では、敗戦を肝に銘じるために描かせたことや、慢心への戒めとして生涯手元から離さなかったことまで説明に加えられている。

つまり、現在一般的に知られている逸話は、1572年の出来事を直接記録した同時代史料から確認されたものではない。1936年頃に登場した説明が、その後の美術館の図録などを通じて広く定着していったという経緯がある。

この発見によって、しかみ像の自戒説は歴史的事実として確定した逸話ではなく、近代に形成された伝承として位置づけられるようになった。


自戒説の成立をめぐる時系列


17世紀頃

現存する肖像画が制作されたと考えられる時期。


1780年

従姫が紀伊徳川家から尾張徳川家へ嫁ぐ際に、本作品を持参したとされる。


1805年

従姫の死後、尾張徳川家の道具記録に「東照宮尊影」として記載される。


1936年

新聞報道などで三方ヶ原敗戦時の家康像として紹介される。


1972年

自戒のために描かせ、生涯座右から離さなかったという説明が図録で定着する。


2016年

原史彦氏の研究論文が『金鯱叢書』第43輯に掲載され、由来と史料的根拠が改めて検証される。


2026年

徳川美術館の公式作品解説では、自戒説の史料的根拠がないことと、礼拝像という解釈が紹介されている。


出典:徳川美術館収蔵品解説、原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」。

【尾張徳川家の記録】東照宮尊影が示す本物の来歴と人物関係

しかみ像の由来を検証するうえで、もう一つ重要なのが尾張徳川家に残された道具帳の記録だ。

徳川美術館の解説では、尾張徳川家の蔵帳に「東照宮尊影」という名称が記されていることが紹介されている。東照宮とは徳川家康を神格化した東照大権現を指す。つまり、この作品は少なくとも江戸時代には家康の肖像として認識されていた。

ただし、ここで注意したいのは、家康の肖像として伝わったことと、三方ヶ原の敗戦時の姿を描いたことは同じではないという点だ。記録には、三方ヶ原の戦いに関連する説明は付されていない。

従姫が紀伊徳川家から持参した肖像画

原氏の論文や徳川美術館イメージアーカイブによると、この作品の伝来には従姫という女性が関係している。

従姫は1757年生まれ、1804年没。紀伊徳川家から尾張徳川家へ嫁いだ人物で、1780年に尾張徳川家九代当主・徳川宗睦の養子となった治行の正室となった際、この肖像画を持参したとされる。

そして従姫の死後、1805年の記録に「東照宮尊影」として記載された。原氏は、この経緯から、作品が尾張徳川家に代々伝わっていた家康の遺品だったという理解には慎重であるべきだと論じている。

しかみ像をめぐる人物・史料の関係
人物・史料 役割・関係 確認できる事実 徳川家康 肖像の像主 尾張徳川家の記録で東照宮の尊影として扱われる。 武田信玄 三方ヶ原の戦いの対戦相手 1572年の合戦で家康軍を破った。 従姫 作品の伝来に関係する人物 1780年に紀伊徳川家から尾張徳川家へ嫁ぐ際に持参したとされる。 徳川宗睦 尾張徳川家九代当主 治行を養子として迎えた。 治行 従姫の夫 宗睦の養子で、従姫との婚姻を通じて作品の尾張家への伝来に関係する。 原史彦 研究者 作品の由来、伝来記録、図像解釈を研究論文で検証した。 徳川美術館 現所蔵館 現存する作品を所蔵し、公式解説で自戒説の史料的根拠がないと説明する。

この関係を整理すると、家康と信玄の合戦、家康の肖像画、尾張徳川家への伝来という三つの事柄は、それぞれ異なる証拠によって確認されることが分かる。特に従姫の持参品という記録は、現存作品の来歴を考えるうえで重要だが、1572年の敗戦との直接的なつながりを証明するものではない。

【礼拝像説とは】家康を武神として描いたという新しい解釈

自戒説に代わる解釈として注目されているのが、しかみ像は家康を神格化し、武神として礼拝するために制作されたという説である。

この考え方は、作品の表情や姿勢を敗戦直後の家康の心理状態として見るのではなく、宗教的・図像学的な意味を持つ表現として読み解くものだ。

悔しそうな顔ではなく忿怒の表情?

しかみ像の顔を見ると、目を大きく見開き、歯を見せ、眉や口元を強くゆがめていることが分かる。

従来の自戒説では、これを敗戦直後の疲労や苦悩を表現したものと解釈してきた。しかし礼拝像説では、こうした表情を忿怒(ふんぬ)、つまり怒りや威圧を表す宗教的な表情として捉える。

神仏の像には、穏やかな表情だけでなく、悪を退ける力を表現するために厳しい表情を与えたものがある。しかみ像の表情も、単なる敗北の記録としてではなく、家康の神格化という視点から考える余地がある。

片足を上げた姿は半跏思惟像に通じる

もう一つの注目点が、家康の姿勢だ。

しかみ像の家康は片足を上げ、手を顔の近くに添えている。この姿は、仏教美術で知られる半跏思惟像(はんかしいぞう)に通じる特徴を持つ。

半跏思惟像は、片足をもう一方の足に掛け、思索するような姿勢を取る像である。代表的なものに如意輪観音像などがある。

研究者の松島仁氏は、この図像的な特徴に注目し、しかみ像を家康の礼拝像として解釈する研究を提示している。原氏も論文の中でこの見解を紹介し、忿怒の表情と半跏思惟の姿勢を組み合わせた図像解釈の可能性を検討している。

なぜ家康を武神として描く必要があったのか

家康は死後、東照大権現として神格化された。徳川幕府にとって、家康は単なる初代将軍ではなく、徳川政権の正統性を支える神聖な存在でもあった。

そのため、家康の肖像画には、個人の容貌を再現するという目的だけでなく、徳川家の権威や神格を表現する役割も考えられる。

原氏の論文で紹介されている松島氏の研究では、徳川将軍家が政治的権威と宗教的権威を結びつけ、家康を超越的な存在として位置づける思想が論じられている。

この文脈に立つと、しかみ像の独特な姿勢や表情は、敗戦の苦しみを再現したものではなく、神格化された家康の力強さを表現した可能性が出てくる。

もっとも、礼拝像説も制作目的を完全に証明した確定事項ではない。徳川美術館の公式解説が示しているのは、現在有力な図像解釈の一つとしての位置づけである。

【プロの結論】しかみ像は敗戦の教訓ではなく、歴史の解釈そのものを映す肖像画

しかみ像をめぐる最大の誤解は、1572年の三方ヶ原の戦いと、現在残る17世紀の肖像画を一つの出来事として結びつけてしまうことにある。

歴史的に確認できるのは、家康が武田信玄に敗れたこと、現存作品が徳川美術館に所蔵されていること、尾張徳川家の記録に「東照宮尊影」として登場することだ。

一方、家康自身が敗戦直後に絵師へ命じたことや、生涯その絵を手元に置いて反省したことは、確認できる史料によって裏付けられていない。

情報を見極める際には、次の三つの判断基準が役立つ。

- 歴史上の出来事と作品の由来を分ける。 三方ヶ原の戦いが史実だからといって、しかみ像もその直後に描かれたとは限らない。
- 作品の制作年代と伝来記録を確認する。 徳川美術館の17世紀という年代情報や、従姫の持参品という記録は重要な判断材料になる。
- 伝承と研究上の仮説を区別する。 自戒説にも礼拝像説にも、それぞれ異なる成立事情と検討課題がある。

興味深いのは、自戒説が史料的に確立していないにもかかわらず、長い間、家康の人物像を説明する物語として広く受け入れられてきたことだ。

失敗を忘れず、慢心を戒め、次の成功につなげる。この物語が人々の共感を集めた背景には、天下人・徳川家康を完璧な英雄ではなく、失敗から学ぶ人間として捉えたいという思いもあったのだろう。原氏の論文も、伝承が広く受け入れられた背景に、その教訓性への共感があったことを考察している。

しかみ像に関するよくある質問(FAQ)

Q1:しかみ像の正式名称は何ですか?
A1:徳川美術館の作品名は「徳川家康画像(しかみ像)」です。「徳川家康三方ヶ原戦役画像」とも呼ばれています。

Q2:しかみ像の読み方は何ですか?
A2:「しかみぞう」と読みます。漢字では「顰像」と表記します。「顰」は顔をしかめる、眉をひそめるという意味です。

Q3:しかみ像は本当に家康が描かせたのですか?
A3:その伝承を裏付ける史料的根拠はありません。徳川美術館も公式作品解説で、自戒のために描かせたという逸話には史料的根拠がないと説明しています。

Q4:しかみ像は何年に制作されましたか?
A4:徳川美術館の現在の作品情報では、江戸時代の17世紀とされています。1572年の三方ヶ原の戦い当時に制作された作品ではないという見解です。

Q5:しかみ像の本物はどこにありますか?
A5:愛知県名古屋市の徳川美術館に所蔵されています。各地で見られる石像や複製画とは区別されます。

Q6:しかみ像の礼拝像説とは何ですか?
A6:家康を武神として神格化し、礼拝するために制作された肖像画だったという解釈です。忿怒の表情や半跏思惟像に通じる姿勢が、その根拠として注目されています。

Q7:しかみ像は国宝や重要文化財ですか?
A7:徳川美術館の作品情報では文化財指定の記載はありません。著名な作品であることと、国宝・重要文化財などの指定を受けていることは別の問題です。

まとめ:しかみ像の本当の価値は伝承と史実の違いにある

しかみ像は、徳川家康の三方ヶ原の敗戦を忘れないための肖像画として広く知られてきた。しかし、徳川美術館の作品解説と原史彦氏の研究によって、その由来には史料的な裏付けがないことが明らかになっている。

現存する作品は17世紀の江戸時代に制作されたとされ、尾張徳川家では「東照宮尊影」として伝わった。従姫が1780年に紀伊徳川家から持参したという来歴も確認されている。

そして、険しい表情や独特の姿勢は、敗戦の苦悩ではなく、家康を武神として祀るための礼拝像だった可能性も示している。

2026年現在、しかみ像を理解するための鍵は、自戒説をそのまま史実として受け取らず、作品の制作年代・伝来記録・図像表現を総合的に見ることにある。

敗北した家康の姿を描いたという有名な逸話は、史実とは異なる可能性が高い。それでも、なぜこの肖像画が長く人々の記憶に残ってきたのか。その問いこそが、しかみ像という作品の歴史的な面白さを物語っている。

主な参考資料:徳川美術館「徳川家康画像(しかみ像)」作品解説、原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」(『金鯱叢書』第43輯)、文化庁「文化遺産オンライン」、国立公文書館「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」。

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桐島 奈緒

芸能担当デスクとして14年。所属事務所の公式リリース、番組公式サイト、配信サービスの告知を一次情報として照合し、出典の確認できない話は記事にしません。

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