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【岩崎弥太郎の生涯】貧しい土佐の家から三菱創業者になるまで

黒田 亮 黒田 亮 • 更新: • 公開: • 読了約 20 分
目次

岩崎弥太郎は、幕末から明治初期にかけて活躍した実業家です。三菱の創業者として知られていますが、その出発点は決して恵まれた環境ではありませんでした。

1835年、土佐の貧しい家に生まれる

岩崎弥太郎は、1835年1月9日(天保5年)、現在の高知県にあたる土佐国安芸郡井ノ口村に生まれました。

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」によると、父は地下浪人で、岩崎家は経済的に厳しい状況にありました。

弥太郎は幼い頃から儒学や漢学を学び、向学心を持って成長します。青年期には江戸へ遊学し、安積艮斎の門下で学びました。その後、郷里に戻って土佐藩の人脈と関わりを深めていきます。

土佐藩の役人として商業の経験を積む

弥太郎の人生を大きく変えたのは、土佐藩の商務組織である開成館との関わりでした。

1859年ごろ、藩の命令によって長崎に派遣され、貿易や商取引に携わります。その後、1867年には開成館長崎商会の主任となり、欧米の商人との交渉や輸出入業務を担当しました。

長崎では、樟脳や鰹節など土佐の特産品を販売し、軍艦や武器の購入にも関わっています。

1869年には大阪へ移り、藩の商業活動を担う立場になりました。

この経験が、後の三菱の経営に直結します。弥太郎は単に船を動かす技術を持っていたのではなく、貿易、資金調達、外国商人との交渉、輸送網の運営という複数の実務を経験していたのです。

1885年、50歳で死去

三菱を大きく成長させた弥太郎ですが、その生涯は長くありませんでした。

国立国会図書館の記録によると、死去したのは1885年2月7日(明治18年)です。三菱公式の人物紹介では、胃がんにより50歳で亡くなったとされています。

亡くなる直前には、海運業界で共同運輸会社との激しい競争が続いていました。

弥太郎の死によって三菱の経営が終わったわけではありません。弟の岩崎弥之助が事業を引き継ぎ、さらに長男の岩崎久弥へと経営の中心が移っていきます。

【創業の歴史】1870年の九十九商会から1873年の三菱商会へ

岩崎弥太郎三菱

岩崎弥太郎と三菱の関係を理解するうえで、最も重要なのが1870年から1875年までの5年間です。

この時期に、九十九商会、三川商会、三菱商会、郵便汽船三菱会社へと組織や社名が変わり、後の三菱グループにつながる海運事業が形成されました。

1870年:九十九商会の設立

三菱の起源は、1870年(明治3年)の九十九商会です。

当時、日本は明治維新後の大きな制度改革の最中にありました。1871年には廃藩置県が実施され、各藩が保有していた事業や財産の扱いも変化していきます。

土佐藩では、後藤象二郎や板垣退助らが関わる形で民間商社として九十九商会が設けられ、藩の海運事業が引き継がれました。

岩崎弥太郎は、事業に精通していたことから、その経営と監督を任されます。

当初は土佐藩から蒸気船3隻を借り受け、大阪を拠点として海運事業を展開しました。

ここで注目したいのは、三菱が最初から巨大な民間企業だったわけではないという点です。藩の事業を引き継ぎ、船舶と取引先、輸送の経験を経営資源として出発した企業でした。

1872年:三川商会に改称

1872年(明治5年)、九十九商会は三川商会へと改称されます。

廃藩置県によって土佐藩がなくなった後、弥太郎は藩の海運事業を引き受け、民間企業として経営を進めていきました。

大阪と土佐を結ぶ航路を中心に、船舶による輸送事業を展開します。

この段階では、まだ「三菱」という名称は正式な社名になっていません。

1873年:三菱商会が誕生

1873年(明治6年)3月、三川商会は三菱商会に改称されます。

岩崎弥太郎は社主となり、三菱の経営を本格的に主導する立場になりました。

三菱公式サイトには、弥太郎が米国留学中の弟・弥之助に宛てた手紙が紹介されています。

「此の度三菱商会と相改め候。三菱はなり」

この手紙は、社名変更が実際に行われたことを示す重要な資料です。

また、1873年には岡山県の吉岡鉱山を買収し、海運業以外への事業展開も始めています。

三菱創業から海運会社への発展を年表で整理

ここまでの経緯を、関係者と組織の変化を含めて整理します。

年代 出来事・組織 三菱との関係 1870年 九十九商会設立 土佐藩の海運事業を引き継ぎ、弥太郎が経営・監督を担当 1871年 廃藩置県 土佐藩が廃止され、民営化が進む 1872年 三川商会 九十九商会から改称 1873年 三菱商会 三川商会から改称。弥太郎が社主に就任 1874年 三菱蒸汽船会社 東京へ本拠を移転。台湾出兵の輸送を担当 1875年 郵便汽船三菱会社 政府の海運助成策を背景に事業を拡大 1877年 西南戦争 政府軍の輸送を担当 1885年 弥太郎死去 弟の弥之助が経営を継承 1893年 三菱合資会社 弥之助の後見のもと、久弥が第三代社長に就任 1946年 三菱本社解散 戦後の財閥解体により各社が独立

出典:三菱オフィシャルサイト「沿革」「会員会社年表」、国立公文書館アジア歴史資料センター「三菱汽船会社/郵便汽船三菱会社」。

この年表から分かるのは、三菱の創業が単独の会社設立だけで完結した出来事ではなかったということです。

土佐藩の事業を引き継ぎ、民間企業として独立し、社名を変更しながら輸送能力を拡大していく。その連続した変化こそが、三菱の創業史の本質です。

【海運業の発展】台湾出兵と西南戦争が三菱を成長させた理由

三菱が短期間で海運業界における有力企業へ成長した背景には、民間の商業輸送だけでは説明できない要因があります。

特に重要なのが、明治政府による軍事輸送の依頼と海運政策です。

1874年:台湾出兵で軍事輸送を担当

1874年(明治7年)、日本政府は台湾出兵を実施しました。

この際、三菱は軍事輸送を受命します。

当時の日本では、国内の輸送網や船舶保有能力が十分に整っていませんでした。海外への大規模な人員・物資輸送には、船舶を確保し、航路を運営できる事業者が必要でした。

三菱は、それまで蓄積してきた海運の経験を生かし、政府の輸送需要に対応します。

1874年には本拠地を大阪から東京に移し、三菱蒸汽船会社と称するようになりました。

1875年:郵便汽船三菱会社へ

1875年(明治8年)、社名は郵便汽船三菱会社へと変わります。

この時期、三菱は上海定期航路も開設しました。国内輸送だけでなく、海外との定期的な海上輸送にも事業を広げていきます。

国立公文書館アジア歴史資料センターの解説によると、三菱との競争に敗れて解散した日本国郵便蒸気船会社の所有汽船15隻が、政府から無償で貸し下げられました。

船舶の確保は海運会社にとって重要な経営課題です。政府から船舶を借り受けられたことは、三菱にとって大きな競争上の優位性になりました。

1877年:西南戦争で政府軍の輸送を担当

三菱の成長を決定づけた出来事の一つが、1877年(明治10年)の西南戦争です。

西南戦争では、政府軍の人員や物資を輸送する役割を三菱が担いました。

三菱公式の沿革では、台湾出兵と西南戦争の輸送を通じて政府の信頼を得て、財政基盤を強化したと説明されています。

その成長を示す数字として、同社の歴史資料には次の記録があります。




61隻


保有船舶数
三菱公式沿革に記載された当時の船舶数




73%


国内汽船総トン数に占める割合
同資料に記載された当時の構成比


これは、三菱が単なる地方の海運会社から、国内海運を左右する大企業へ成長したことを示しています。

三菱の成功は民間経営力だけによるものだったのか

ここには、創業史を読み解くうえで重要な論点があります。

弥太郎の経営能力が三菱の成長を支えたことは確かですが、政府との関係も無視できません。

- 政府軍の輸送を受注したこと
- 政府の海運助成策を受けたこと
- 競合会社の解散後に船舶の貸し下げを受けたこと
- 政府の資金を背景に船舶を増強したこと

こうした条件が、三菱の競争力を高めました。

一方、競争相手の減少や運賃をめぐる批判も起こります。

国立公文書館アジア歴史資料センターによると、1880年ごろから三菱の運賃政策に対する批判が高まり、政府は1882年に共同運輸会社を設立して対抗させました。

両社の競争は激化し、最終的には1885年に合併することで決着します。新たに設立されたのが日本郵船会社です。

つまり、三菱の成長には経営者の能力だけでなく、国家の近代化政策、政府との取引、競争環境の変化が複合的に作用していたのです。

【スリーダイヤの由来】岩崎家と土佐藩の家紋が三菱マークになった?

三菱と聞いて多くの人が思い浮かべるのが、3つの菱形を組み合わせたスリーダイヤです。

このマークには、岩崎家と土佐藩主の山内家という、2つの家の歴史が関係しています。

スリーダイヤの原型は九十九商会の船旗号

三菱の公式説明によると、現在のスリーダイヤの原型は、九十九商会が創業時に船旗号として採用した「三角菱」です。

その由来として考えられているのが、次の2つの家紋です。


岩崎家の三階菱

岩崎家の家紋として伝わる意匠

山内家の三ツ柏

土佐藩主・山内家の家紋

岩崎家の「三階菱」と、土佐藩主である山内家の「三ツ柏」。

この2つの意匠が組み合わさったものが、スリーダイヤの原型になったとされています。

なぜ「三菱」という社名になったのか

三菱の公式サイトでは、弥太郎が1873年3月に三菱商会へ改称したことと、弟の弥之助に宛てた手紙の内容が紹介されています。

ここで重要なのは、社名の「三菱」とマークの関係です。

三菱という名前は、創業時から存在していたわけではありません。九十九商会、三川商会という名称を経て、1873年に三菱商会という社名が採用されました。

つまり、現在のスリーダイヤと三菱という社名は、創業時の船旗号と深く結びついているのです。

現在のマークが完成したのはいつ?

現在の形が一度に完成したわけではありません。

三菱自動車の公式説明によると、初期のマークは現在とは角度が異なり、1910年ごろに現在の形に整えられました。

さらに1914年6月には、三菱合資会社によって現在のマークが商標登録されています。

したがって、スリーダイヤの歴史は次のように整理できます。

- 1870年:九十九商会が船旗号として三角菱を採用
- 1873年:三菱商会へ改称
- 1910年ごろ:現在につながる形に整う
- 1914年:商標登録

なお、三菱公式サイト自身も、マークの正確な由来については明確に断定していません。「岩崎家と山内家の家紋に由来すると考えられている」という説明が適切です。

【岩崎弥之助・岩崎久弥】創業者の死後、三菱財閥はどう形成されたのか

岩崎弥太郎は三菱の創業者ですが、今日につながる企業集団の形成には、後継者たちの経営判断が大きく関わっています。

特に重要なのが、弟の岩崎弥之助と長男の岩崎久弥です。

岩崎弥之助:海運中心から陸上産業へ転換

岩崎弥之助は1851年生まれで、弥太郎の16歳年下の弟です。

1872年に米国へ留学し、翌1873年に帰国して三菱商会に入社しました。

兄の死後、1885年に三菱の第二代社長となります。

弥之助の経営上の大きな特徴は、事業の中心を海運から陸上産業へ移したことでした。

具体的には、次のような取り組みが挙げられます。

- 高島炭坑の経営を推進
- 鉱山事業の拡大
- 長崎造船所の近代化
- 金融事業の整備
- 丸の内の土地取得

特に1890年の丸の内・神田周辺の土地取得は、その後の三菱の事業展開に大きな影響を与えました。

弥之助は、海運だけに依存しない事業構造を整えた経営者だったのです。

岩崎久弥:近代的な企業経営を導入

岩崎久弥は1865年生まれ。弥太郎の長男です。

米国のペンシルヴァニア大学で学び、帰国後に三菱の経営に参加しました。

1893年、三菱合資会社の発足に伴い第三代社長に就任します。

久弥の経営では、各事業部門の独立採算制や専門家への権限委譲など、組織の近代化が進みました。

また、造船、鉱山、銀行、商業などの分野へ事業を広げ、三菱を総合的な企業集団へと発展させました。

1916年には従弟の岩崎小弥太に社長職を譲っています。

岩崎家四代の経営者と三菱の発展


岩崎家四代社長の関係



初代・岩崎弥太郎
1835〜1885年|三菱創業者
海運事業を創業



弟


二代・岩崎弥之助
1851〜1908年|1885年に社長就任
鉱業・造船・金融へ多角化



弥太郎の長男


三代・岩崎久弥
1865〜1955年|1893年に社長就任
組織経営・事業の近代化



弥之助の長男・久弥の従弟


四代・岩崎小弥太
1879〜1945年|1916年に社長就任
企業集団としての発展

この四代の経営者によって、三菱の事業基盤が形成されました。

弥太郎が海運業を起こし、弥之助が陸上産業へ広げ、久弥が組織を近代化し、小弥太が企業集団としての発展を進めたという流れです。

1946年、財閥解体で三菱本社が解散

第二次世界大戦後、日本では財閥解体が進められました。

1946年(昭和21年)、三菱本社は解散し、それまで一体的に運営されていた企業はそれぞれ独立した会社へと移行します。

現在の三菱グループは、こうした戦後の再編を経て形成された企業集団です。

したがって、1870年の九十九商会と、2026年現在の三菱グループを完全に同一の会社組織として捉えるのは正確ではありません。

創業の歴史や企業としてのつながりを共有しながら、それぞれの会社が独立して事業を展開しているのが現在の姿です。

【プロの結論】岩崎弥太郎と三菱の歴史から分かる3つの重要な事実

岩崎弥太郎と三菱の関係を調べる際には、次の3つのポイントを押さえると、歴史上の位置づけを正確に理解できます。

1. 三菱の創業は1870年、三菱という社名の誕生は1873年

この2つは混同されやすい事実です。

三菱の起源は1870年の九十九商会ですが、三菱商会という社名になったのは1873年です。

「三菱はいつ創業したのか」という質問には1870年、「三菱という名前がいつ登場したのか」という質問には1873年と答えるのが適切です。

2. 三菱の成長には政府との関係が大きく影響した

弥太郎の経営手腕だけでなく、明治政府の海運政策や軍事輸送の需要も成長を支えました。

特に台湾出兵と西南戦争の輸送、船舶の貸し下げ、政府による支援は、海運事業を急拡大させる要因となっています。

一方で、競争の激化や運賃をめぐる批判も生まれました。

三菱の創業史は、民間企業の成功物語であると同時に、明治政府による産業育成と近代化の歴史でもあります。

3. 現在の三菱グループは弥太郎一人で完成させたものではない

弥太郎は創業の基礎を築きましたが、その後の多角化と組織形成は、弥之助、久弥、小弥太という後継者たちの経営によるところが大きいものです。

創業者の功績と後継者の功績を分けて考えることが、三菱の歴史を理解するうえで欠かせません。

歴史情報を見極めるための判断基準

岩崎弥太郎や三菱について調べる場合、情報の種類によって確認先を使い分けると、誤解を避けやすくなります。

調べたい内容 優先して確認したい資料
生没年・人物の経歴 国立国会図書館「近代日本人の肖像」
会社の設立・改称 三菱オフィシャルサイトの沿革
台湾出兵・西南戦争 国立公文書館アジア歴史資料センター
スリーダイヤの由来 三菱公式のマーク解説
後継者と経営の変遷 三菱公式の岩崎家人物伝

特に、創業年と社名の変更年、家紋の由来と確定した史実、創業者と後継者の功績を混同しないことが重要です。

【岩崎弥太郎と三菱】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:岩崎弥太郎は三菱をいつ創業しましたか?

A1:1870年(明治3年)です。土佐藩の海運事業を引き継ぐ形で九十九商会が設立され、岩崎弥太郎が経営と監督を担当しました。

Q2:三菱という会社名になったのはいつですか?

A2:1873年(明治6年)3月です。九十九商会から三川商会への改称を経て、三菱商会となりました。

Q3:三菱のスリーダイヤは何に由来しますか?

A3:九十九商会が船旗号として採用した三角菱が原型とされています。岩崎家の三階菱と土佐藩主・山内家の三ツ柏に由来すると考えられています。

Q4:岩崎弥太郎の後を継いだのは誰ですか?

A4:弟の岩崎弥之助です。1885年に第二代社長に就任し、その後、弥太郎の長男・岩崎久弥が第三代社長となりました。

Q5:岩崎弥太郎と現在の三菱グループは同じ会社ですか?

A5:創業の歴史を共有していますが、組織としては同一ではありません。1946年の三菱本社解散と戦後の再編を経て、現在は各社が独立した企業として活動しています。

まとめ:岩崎弥太郎が築いた三菱の創業精神と150年以上の歴史

岩崎弥太郎と三菱の関係は、1870年の九十九商会設立から始まります。土佐藩の海運事業を引き継ぎ、1872年に三川商会、1873年に三菱商会へと改称。その後、台湾出兵や西南戦争での軍事輸送を通じて、海運業界で大きな存在感を持つようになりました。

三菱のスリーダイヤには、岩崎家の三階菱と土佐藩主・山内家の三ツ柏に関係する歴史が残っています。社名とマークの双方に、創業期の土佐藩とのつながりが反映されています。

そして1885年に弥太郎が亡くなった後、弟の岩崎弥之助が事業を継承し、長男の岩崎久弥や岩崎小弥太へと経営の基盤が引き継がれました。戦後の財閥解体によって組織は再編されましたが、創業から続く歴史は現在の三菱グループにも受け継がれています。

岩崎弥太郎の最大の功績は、単に三菱という会社を立ち上げたことではありません。明治維新という社会の転換期に、藩の事業を民間の経営へと転換し、海運を起点に日本の近代産業につながる事業基盤を築いたことにあります。その歴史を知ることが、現在の三菱グループを理解する最も確かな出発点です。

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黒田 亮
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スポーツ紙で15年の記者歴。試合結果と記録は球団・リーグの公式記録とNPB発表で照合し、移籍報道は球団の公式コメントが出るまで断定しません。

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