江利チエミと高倉健。昭和を代表する歌手と映画スターとして知られる2人は、1959年2月16日に結婚し、1971年に離婚した。映画での共演をきっかけに結ばれた夫婦だったが、妊娠・出産をめぐる悲しい経験、親族による金銭問題、自宅の火災など、結婚生活には幾重もの困難が重なっていた。
とりわけ注目されるのは、江利チエミの異父姉をめぐる問題と、離婚後の2人の関係だ。高倉健は再婚することなく生涯を送り、江利の死後も墓参りや線香を通じて故人をしのんでいたと複数の報道や関係者の証言で伝えられている。2026年現在、2人の人生を振り返ると、離婚という結末だけでは捉えきれない関係が浮かび上がる。
【出会いから結婚へ】江利チエミと高倉健の馴れ初めは映画共演だった

江利チエミと高倉健が出会ったのは、1956年公開の映画『恐怖の空中殺人』での共演だった。
当時の江利は、すでに歌手として大きな人気を獲得していた。1952年に「テネシー・ワルツ」でレコードデビューし、美空ひばり、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれる存在になっていた。
一方の高倉は、1955年に東映へ入社したばかりの若手俳優。江利と比べると、まだ全国的なスターとしての知名度は高くなかった。
2人の出会いは、人気歌手と駆け出しの映画俳優という、異なる立場の芸能人が映画の現場で接点を持ったことから始まった。
高倉健からの積極的なアプローチ2人の交際については、江利の評伝や共演者の回想にいくつかのエピソードが残されている。
プレジデントオンラインが2024年に掲載した田幸和歌子氏の記事では、江利と親交のあった大村崑の回想が紹介されている。
大村は、江利の楽屋に高倉が頻繁に訪れていた様子を語っている。2人がメロンを半分に割り、カレーライス用のスプーンで仲良く食べていたというエピソードも印象的だ。
また、同記事が紹介する評伝によれば、江利は当初、別の男性に思いを寄せていた時期もあったという。女優の清川虹子に恋愛相談をしながら、高倉との関係を深めていったとされる。
こうした関係者の回想からは、高倉が江利に強い好意を寄せ、積極的に距離を縮めていった様子がうかがえる。
1959年2月16日、帝国ホテルで結婚2人は1959年2月16日、東京都千代田区の帝国ホテルで結婚式を挙げた。
当時、高倉は28歳、江利は22歳。6歳差の夫婦だった。
結婚後、江利は一度歌手活動から離れ、家庭生活を優先する道を選んだ。しかし、芸能界への思いは消えておらず、その後は歌手活動に復帰し、映画や舞台でも活躍を続けた。
この結婚は、当時の芸能界でも大きな話題となった。人気歌手と将来を期待された俳優の結婚は、昭和の芸能史に残る出来事の一つである。
【結婚から離婚までの年表】2人に何が起きたのか
2人の関係を理解するには、結婚から離婚までに起きた出来事を時系列で整理する必要がある。
| 年 | 出来事 | 2人への影響 |
|---|---|---|
| 1952年 | 江利が「テネシー・ワルツ」でデビュー | 歌手として人気を確立 |
| 1956年 | 『恐怖の空中殺人』で共演 | 2人の出会い |
| 1959年2月16日 | 帝国ホテルで結婚 | 夫婦生活が始まる |
| 1961年 | 江利がかわいがっていた甥を事故で失う | 家族としての悲しい経験 |
| 1962年ごろ | 妊娠するが妊娠高血圧症候群により出産を断念 | 子どもを持つ願いがかなわず |
| 1960年代 | 江利の親族をめぐる金銭問題が深刻化 | 家庭生活に負担が生じる |
| 1970年1月 | 世田谷の自宅が火災で全焼 | 生活基盤に大きな打撃 |
| 1971年 | 2人が離婚 | 約12年間の結婚生活に終止符 |
| 1972年 | 江利が異父姉を告訴 | 金銭問題が法的な争いに発展 |
| 1982年2月13日 | 江利チエミが45歳で死去 | 高倉との関係が再び注目される |
| 2014年11月10日 | 高倉健が83歳で死去 | 昭和を代表する2人がともに故人となる |
この年表で見逃せないのは、離婚の直前に起きた自宅火災と親族の金銭問題だ。単純な夫婦の不仲だけで説明できる経緯ではなかった。
江利の人生には、歌手としての成功と、家庭内での苦難が同時に存在していた。
【子どもをめぐる悲しい経験】江利チエミの妊娠と出産できなかった理由
1962年ごろに妊娠するも、出産を断念江利チエミと高倉健の結婚生活を語るうえで、子どもをめぐる経験は避けて通れない。
日刊スポーツの2014年11月19日付の記事によると、江利は結婚から約3年後の1962年に妊娠した。しかし、妊娠高血圧症候群のため、出産を断念せざるを得なかったという。
妊娠高血圧症候群は、妊娠中に高血圧を中心とした症状が現れる病気で、重症化すると母体や胎児に深刻な影響を及ぼすことがある。
当時の医療環境のなかで、江利は母体の安全を優先せざるを得ない状況に直面したと伝えられている。
その後、2人の間に実子が生まれることはなかった。
甥を自分の子どものようにかわいがっていた江利江利には、実子とは別に、家族の子どもを大切にしていたエピソードもある。
プレジデントオンラインの記事によると、江利は実兄の子どもであるサトシを自分の子どものようにかわいがり、養子にすることも考えていたという。
ところが、1961年にサトシは事故で亡くなってしまう。
子どもをめぐる悲しい経験が続いたことは、江利にとって大きな喪失だったと考えられる。
ただし、こうした出来事を離婚の直接的な原因と断定することはできない。夫婦の生活に影響を与えた背景の一つとして捉える必要がある。
2人の子どもを供養する水子地蔵高倉健と江利チエミの関係を伝えるエピソードとして知られているのが、水子地蔵の存在だ。
日刊スポーツは2014年、高倉が1972年に購入した鎌倉霊園の生前墓のそばに、2人の間に生まれなかった子どもを供養する水子地蔵が建てられていると報じた。
この報道は、離婚後も高倉が江利との間にあった家族の記憶を大切にしていたことをうかがわせる。
離婚したからといって、2人が共有した子どもへの思いや悲しみまで消えたわけではなかった。
【離婚理由を徹底検証】異父姉の金銭問題と夫婦のすれ違い
異父姉に家計管理を任せていたことが問題の発端江利チエミと高倉健の離婚理由として、最も大きく取り上げられてきたのが江利の異父姉をめぐる金銭問題である。
江利には、母親が父親と結婚する前に生んだ異父姉がいた。
プレジデントオンラインが紹介した藤原佑好氏の評伝『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』によると、江利は異父姉の境遇を気の毒に思い、同居を受け入れた。
やがて江利は姉を信頼し、通帳や実印などを預け、家計の管理も任せるようになったという。
しかし、その信頼が裏切られることになる。
同記事で紹介されている清川虹子の証言によれば、異父姉は江利の銀行預金を使い込み、不動産を担保にした借金を重ね、江利と高倉が暮らす自宅まで抵当に入れていたとされる。
その結果、江利は億単位と報じられる借金問題に巻き込まれた。
高倉健の浮気をほのめかす情報まで吹き込まれた金銭問題だけではなかった。
同じ評伝に収録された清川虹子の証言では、異父姉が江利に対し、高倉には別の女性がいるという趣旨の話を吹き込んでいたことも伝えられている。
加えて、離婚を勧め、弁護士への相談にも関与していたという。
こうした状況が事実であれば、江利は経済的な問題だけでなく、夫婦間の信頼関係まで揺さぶられていたことになる。
ただし、高倉の浮気が離婚の原因だったと裏付ける確かな情報は示されていない。異父姉がそのような話をしていたという関係者の証言と、実際に浮気があったかどうかは分けて考える必要がある。
1970年の自宅火災も重なり、家庭環境が悪化金銭問題に加え、2人には大きな不幸が続いた。
1970年1月には、世田谷区にあった自宅が火災で全焼した。
加えて、江利の生活を支えていた長兄も亡くなったと伝えられている。
高倉は俳優としての仕事が忙しく、家庭を離れる時間が増えていた。江利は精神的にも経済的にも厳しい状況に置かれていった。
プレジデントオンラインの記事では、こうした出来事が重なった末に、夫婦は1971年に離婚したと説明されている。
離婚を申し出たのは江利チエミだった日刊スポーツは、江利の異父姉による横領や虚言が夫婦関係を引き裂き、江利が高倉に迷惑をかけたくないという思いから離婚を申し出たと報じている。
一方、2012年の報道で紹介された高倉自身の過去のインタビューでは、本人は夫婦関係がうまくいっていると思っていたところ、東映撮影所に突然弁護士が訪れ、離婚の話を告げられて驚いたという趣旨の回想をしている。
この証言は重要だ。
江利にとっては、夫に迷惑をかけないための苦渋の決断だった可能性がある。一方、高倉にとっては、予想していなかった形で訪れた別れだったことがうかがえる。
離婚の背景には、親族の金銭問題だけでなく、夫婦が置かれていた状況や、問題の受け止め方の違いもあったと考えられる。
1972年、江利は異父姉を告訴離婚の翌年、江利は異父姉を告訴した。
コトバンク掲載の人物事典によれば、異父姉には懲役3年の実刑判決が下されたと記載されている。
江利が告訴した背景には、借金や財産をめぐる問題の解明があったと伝えられている。
離婚した後も、江利は経済的な負担から逃れられなかった。借金を返済しながら芸能活動を続ける生活が始まったのである。
【離婚後も続いた縁】高倉健は江利チエミの墓参りを続けていた
江利チエミは1982年2月13日に45歳で死去離婚から約11年後の1982年2月13日、江利チエミは45歳で亡くなった。
日刊スポーツや文藝春秋の記事によると、死因は脳出血・脳卒中と吐瀉物の誤嚥による窒息だった。
江利は離婚後、億単位と報じられた借金の返済に取り組みながら、歌手や女優として活動を続けていた。
BS朝日の番組『昭和偉人伝』でも、江利が離婚後に自力で多額の借金を返済し、これからという時期に突然亡くなったことが紹介されている。
なお、江利の葬儀が行われた2月16日は、高倉の誕生日であり、2人の結婚記念日でもあった。
偶然とはいえ、2人の人生を象徴するような日付の重なりである。
高倉健は毎年、江利の墓参りをしていた高倉健の離婚後の行動として知られるのが、江利の墓参りだ。
2012年8月30日付の女性自身は、高倉が江利の命日を中心に墓参りを続けていたという関係者の証言を掲載した。
また、日刊スポーツも2014年11月19日付の記事で、高倉が江利の命日には毎年欠かさず墓参りをして花を手向けていたと報じている。
一方、BS朝日の『昭和偉人伝』では、江利の遺族が保管する仏壇のある久保家に、元夫の高倉から毎年線香が届いていたという関係者の証言が紹介された。
つまり、墓参りだけでなく、江利の家族に対する供養の気持ちも伝えられていたのである。
なお、墓所については報道によって法徳寺や鎌倉霊園に関する説明が見られる。墓参りの事実と墓所の詳細は分けて理解したい。
離婚しても江利への思いは残っていたのか2024年1月26日、文春オンラインは、江利と親交の深かった杉良太郎の回想を掲載した。
杉によると、江利は酒が入ると、高倉との思い出をよく話していたという。
高倉のこだわりの強さや、日常の何気ない行動など、夫婦だった頃の記憶を杉に語っていたことが紹介されている。
この証言からは、離婚後も江利の心の中に高倉との思い出が残っていたことがうかがえる。
一方、高倉自身も再婚することなく生涯を送り、江利の命日に墓参りをしていたと複数のメディアが報じている。
ただし、2人が離婚後に復縁を約束していた、あるいは継続的に直接交流していたと確認できる公的な記録があるわけではない。
墓参りや線香を送る行為は、少なくとも高倉が元妻とその家族を長く気にかけていたことを示すエピソードとして受け止められている。
【噂と事実を整理】江利チエミと高倉健の関係で誤解されやすいポイント
2人については、長年にわたりさまざまなエピソードが語られてきた。特に、離婚理由や子どもの有無、離婚後の関係は情報が混同されやすい。
整理しておきたい要点は次のとおりだ。
| 検証する項目 | 報じられている事実 | 判断のポイント |
|---|---|---|
| 2人の出会い | 1956年の映画『恐怖の空中殺人』で共演 | 映画共演が出会いのきっかけ |
| 結婚 | 1959年2月16日 | 帝国ホテルで結婚式 |
| 子ども | 実子はいない | 1962年ごろの妊娠後、出産を断念 |
| 離婚理由 | 異父姉の金銭問題、家庭環境の悪化など | 一つの原因だけでは説明できない |
| 異父姉の問題 | 財産や借金をめぐる問題が発覚 | 1972年に告訴、人物事典には懲役3年と記載 |
| 離婚後の関係 | 高倉の墓参りや線香の話が報道されている | 復縁したという意味ではない |
| 高倉の再婚 | 再婚しなかった | 江利が唯一の正式な妻だったと報道 |
| 江利の死去 | 1982年2月13日、45歳 | 脳卒中・脳出血と誤嚥による窒息 |
ここから分かるのは、2人の関係を単純な「親族トラブルによる離婚」として片付けることには無理があるという点だ。
子どもをめぐる悲しい経験、江利の芸能活動への復帰、高倉の仕事の多忙さ、火災や借金問題など、複数の出来事が長い時間をかけて積み重なっていた。
また、高倉の墓参りを復縁の証拠として扱うのも適切ではない。離婚という法的な関係の終わりと、個人の記憶や供養の気持ちは別のものだからだ。
【プロの結論】江利チエミと高倉健の離婚が今も語り継がれる理由
江利チエミと高倉健の関係が、離婚から半世紀以上が経過した2026年にも関心を集める理由は、2人が昭和の芸能界を代表する存在だったことだけではない。
そこには、成功したスターであっても避けられなかった家族の問題、病気による出産の断念、経済的な困難、そして離婚後も残り続けた人間関係がある。
江利は歌手として「テネシー・ワルツ」を大ヒットさせ、美空ひばり、雪村いづみとともに三人娘として時代を築いた。映画『サザエさん』では主人公を演じ、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』などでも活躍した。
キングレコードの公式プロフィールによれば、1953年から16年連続でNHK紅白歌合戦に出場している。
一方、高倉健は『網走番外地』シリーズや『幸福の黄色いハンカチ』『鉄道員(ぽっぽや)』などで日本映画史に大きな足跡を残した。
2人はそれぞれ異なる分野で成功を収めたが、夫婦としての生活は決して平坦ではなかった。
特に重要なのは、離婚後の行動だ。
高倉が江利の墓参りを続け、遺族に線香を送っていたという報道は、離婚という結果だけでは2人の関係を説明できないことを示している。
江利は1982年に45歳で亡くなり、高倉も2014年に83歳で亡くなった。2人が再び夫婦として人生を歩むことはなかった。
それでも、共に過ごした年月や、子どもをめぐる経験、家庭を襲った困難、そして別れた後の供養という行動は、今も昭和芸能史の一つの物語として残っている。
【江利チエミと高倉健に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:江利チエミと高倉健はいつ結婚しましたか?
A1:1959年2月16日です。東京都千代田区の帝国ホテルで結婚式を挙げました。当時、高倉は28歳、江利は22歳でした。
Q2:江利チエミと高倉健に子どもはいましたか?
A2:2人の間に実子はいません。江利は1962年ごろに妊娠しましたが、妊娠高血圧症候群のため出産を断念したと日刊スポーツが報じています。
Q3:江利チエミと高倉健の離婚理由は何ですか?
A3:主な背景として伝えられているのは、江利の異父姉による預金の使い込みや借金、不動産の担保問題です。加えて、自宅火災や夫婦のすれ違いなども重なっていました。江利側から離婚を申し出たと報じられています。
Q4:高倉健は離婚後も江利チエミの墓参りをしていましたか?
A4:はい。2012年の女性自身や2014年の日刊スポーツなどが、命日ごとの墓参りを続けていたと報じています。BS朝日の番組でも、江利の遺族に毎年線香を送っていたという証言が紹介されています。
Q5:江利チエミの異父姉はどうなりましたか?
A5:江利は1972年に異父姉を告訴しました。コトバンク掲載の人物事典には、異父姉に懲役3年の実刑判決が下されたと記載されています。
Q6:高倉健は江利チエミと離婚した後、再婚しましたか?
A6:再婚していません。高倉の結婚歴は江利チエミとの一度だけだったと日刊スポーツなどが報じています。
まとめ:江利チエミと高倉健、離婚後も残った深い縁
江利チエミと高倉健は、1956年の映画共演をきっかけに出会い、1959年に結婚した。しかし、子どもをめぐる悲しい経験や異父姉による金銭問題、自宅火災などの困難が重なり、1971年に離婚した。
江利は離婚後も歌手・女優として活動しながら借金返済に取り組んだが、1982年、45歳という若さで亡くなった。
高倉はその後再婚せず、江利の命日に墓参りを続け、遺族にも線香を送っていたと伝えられている。
2人の結婚生活は約12年で終わった。しかし、離婚という事実だけでは、共に過ごした時間や別れた後も続いた供養の意味までは語り尽くせない。
昭和のスターとして輝いた2人の人生は、愛情と喪失、家族の問題、そして時を経ても残る記憶について、今も多くのことを考えさせる。
主な参照資料: キングレコード公式プロフィール、コトバンク「20世紀日本人名事典」、日刊スポーツ(2014年11月19日)、BS朝日『昭和偉人伝』、プレジデントオンライン(2024年3月23日)、文春オンライン(2024年1月26日)、女性自身(2012年8月30日)。