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平賀源内とうなぎの関係は?土用の丑の日の由来と史料が示す真相を徹底解説

小野寺 拓海 小野寺 拓海 • 更新: • 公開: • 読了約 22 分
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夏の風物詩として定着している「土用の丑の日にうなぎを食べる」という習慣。その発案者として、江戸時代の奇才・平賀源内の名前を聞いたことがある人は多いのと考えられます。

有名なのは、夏場にうなぎが売れず困っていたうなぎ屋から相談を受けた平賀源内が、「本日土用丑の日」と店頭に掲げるよう助言したところ、店が大繁盛したという逸話です。しかし、この話はどこまで史実なのでしょうか。実は、逸話の出典とされる青山白峰の随筆『明和誌』を読むと、一般に知られる話とは異なる記述が見えてきます。

加えて、江戸の名店・春木屋善兵衛が「丑の日元祖」を名乗っていた記録や、狂歌師・大田南畝(蜀山人)にまつわる説も残されています。2026年現在、国立国会図書館の公開資料や江戸時代の文献を照らし合わせると、うなぎと平賀源内の関係は、伝承としての知名度と史料による裏付けを分けて考える必要があります。

【結論】平賀源内がうなぎを広めたという話は本当なのか?

うなぎ平賀源内

最初に結論を整理すると、平賀源内が土用の丑の日とうなぎを結び付けたという説は、広く知られた歴史的逸話です。しかし、源内本人が実際に宣伝文句を考案し、それが全国的な食習慣の始まりになったと証明する確実な史料は確認されていません。

有名な「本日土用丑の日」の看板の逸話

平賀源内説は、おおむね次のような筋書きで語られています。

  1. 江戸時代、夏場になるとうなぎが売れなくなり、商売に困ったうなぎ屋がいた。
  2. 店主は、博識で知られていた平賀源内に販売促進の方法を相談した。
  3. 源内は、丑の日に「う」の付く食べ物を食べると夏負けしないという言い伝えに着目した。
  4. 「本日土用丑の日」と書いた看板や貼り紙を店先に出すよう助言した。
  5. 宣伝が評判となって店が繁盛し、ほかのうなぎ屋も同じ方法を取り入れた。

この話が魅力的なのは、単なる食習慣の説明ではなく、江戸時代の知識人と商人が協力して新しい需要を生み出したという、分かりやすい物語になっている点です。

特に「本日土用丑の日」という短い言葉は、現在の広告や販売促進のキャッチコピーにも通じるものがあります。平賀源内が多方面で活躍した人物だったことも、この逸話に説得力を与えてきました。

平賀源内はどのような人物だったのか

平賀源内は、讃岐国(現在の香川県)出身の江戸時代中期の本草学者・戯作者・発明家です。国立国会図書館の人物紹介では、1728年生まれ、1779年没とされています。

源内は、単に学問に詳しいだけの人物ではありませんでした。物産会の開催、西洋の博物学に関する知識の収集、石綿を用いた火浣布の製作、エレキテルの復元など、幅広い分野で活動しました。

国立国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」では、源内が企業家や戯作者としても活動し、西洋の学術を取り入れようとしていたことが紹介されています。

こうした経歴を考えれば、商売の相談を受けて宣伝方法を考案したという話が人物像に合っているのは確かです。ただし、人物像に合うことと、実際にその出来事があったことは別問題です。

源内の生涯と土用の丑の日の成立時期が重なる部分はありますが、それだけで発案者と断定することはできません。

【明和誌を検証】青山白峰の記録に平賀源内の名前はある?

平賀源内説を検証するうえで、特に重要なのが青山白峰の『明和誌』です。

この随筆は文政5年(1822年)に序が付された資料で、江戸時代の風俗や世相を記録しています。土用の丑の日にうなぎを食べる習慣についても記述があり、成立時期を考えるうえで重要な手掛かりとなっています。

『明和誌』に記された実際の文章

国立国会図書館の資料を活用したジャパンサーチでは、『明和誌』の該当箇所として、次の文章が紹介されています。

「安永天明の頃よりはじまる。」

この一節の前には、寒中の丑の日に紅をつける風習と、土用に入ってから丑の日にうなぎを食べる習慣についての記述があります。

文章全体を読むと、うなぎを食べる風習が安永・天明の頃から始まったという、当時の生活習慣に関する記録であることが分かります。

安永は1772年から1781年、天明は1781年から1789年です。つまり、『明和誌』は、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が18世紀後半に広まったことを伝えています。

重要なのは、源内の宣伝エピソードが書かれていないこと

ここが、平賀源内説を検証する際の最大のポイントです。

『明和誌』の該当箇所には、平賀源内の名前も、うなぎ屋から相談されたという話も、「本日土用丑の日」という看板を掲げたという記述もありません。

つまり、同書が裏付けているのは、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が安永・天明期に始まったと伝えられていたことです。源内が発案者だったという部分まで証明しているわけではありません。

一般向けの解説では、源内説と『明和誌』がセットで紹介されることがあります。しかし、史料に実際に書かれている内容と、後世に広まった逸話は区別する必要があります。

なぜ『明和誌』が重要な史料なのか

『明和誌』の価値は、発案者を特定できることではなく、当時の人々がどのような食習慣を持っていたかを知る手掛かりになる点にあります。

現在のように広告記録や販売統計が整っていない時代には、随筆や風俗考証書が生活文化の変化を知る貴重な資料になります。

また、1822年にまとめられた記録が1770年代から1780年代の風習を振り返っていることから、習慣の成立と記録の成立には時間差があることにも注意が必要です。

【諸説を比較】平賀源内・春木屋善兵衛・太田蜀山人の関係

土用の丑の日とうなぎの由来には、平賀源内説以外にも複数の説があります。代表的なのが、江戸のうなぎ屋・春木屋善兵衛説と、狂歌師・大田南畝(蜀山人)説です。

それぞれの説は、伝えられている内容も、史料から確認できる事実も異なります。

3つの代表的な由来説を比較
説・関係者 伝えられている内容 史料で確認できること 検証上の評価
平賀源内説 うなぎ屋に「本日土用丑の日」という看板を勧め、繁盛させた。 『明和誌』には土用の丑の日にうなぎを食べる習慣の記述があるが、源内の名前や看板の逸話はない。 有名な伝承だが、発案者を確定する史料的裏付けはない。
春木屋善兵衛説 子・丑・寅の3日に焼いたうなぎを保存し、丑日に焼いたものだけ風味が保たれた。 1824年刊『江戸買物独案内』に春木屋が「丑ノ日元祖」として登場する。 店が丑の日との関係を宣伝していた記録はあるが、逸話の全容を証明するものではない。
大田蜀山人説 狂歌師・大田南畝が、うなぎを食べることを勧める狂歌などで宣伝した。 図書館のレファレンス資料などで、源内説と並ぶ由来説として紹介されている。 有力な関連伝承の一つだが、起源を一人に特定できる決定的証拠はない。
春木屋善兵衛説:江戸の名店が「丑の日元祖」を名乗った

春木屋善兵衛説には、平賀源内説とは異なる特徴があります。それは、江戸時代の買い物案内に実際の店名と「丑の日元祖」という表示が確認できることです。

文政7年(1824年)刊行の『江戸買物独案内』は、江戸の商店や名物を紹介したガイドブックです。その中に神田和泉橋通のうなぎ屋・春木屋善兵衛が掲載され、「丑ノ日」「元祖」と記されています。

この記録は、春木屋が土用の丑の日とうなぎの結び付きを商売上の特徴として打ち出していたことを示す重要な材料です。

一方、広く伝わる春木屋説では、次のような物語が語られています。

  • 春木屋善兵衛が大名から大量の蒲焼きの注文を受けた。
  • 子の日・丑の日・寅の日の3日に分けてうなぎを焼いた。
  • 焼いた蒲焼きを土蔵などに保存した。
  • 納品時に確認すると、丑日に焼いたものだけが色や風味を保っていた。
  • それ以来、春木屋が「土用丑の元祖」を名乗るようになった。

ただし、この保存の逸話と1824年の店の広告記録は同じものではありません。店が元祖を名乗っていた事実は確認できますが、注文の経緯や保存実験までを同時代の確実な記録で証明できるわけではありません。

太田蜀山人説:狂歌による宣伝が広めたという伝承

もう一つの説が、大田南畝(おおたなんぽ)、別号・蜀山人に関係するものです。

大田南畝は江戸時代後期を代表する狂歌師・文人で、洒落や風刺を交えた作品で知られています。

伝承では、うなぎ屋の依頼を受けた蜀山人が、丑の日にうなぎを食べれば病気にならないという趣旨の狂歌を作り、販売促進に協力したとされています。

この説も、源内説と同じく、知名度の高い文化人の影響力を商売に活用したという内容です。

岡山県立図書館のレファレンス協同データベースでは、うなぎを食べる習慣の起源について、平賀源内または太田蜀山人が宣伝と結び付けた可能性を紹介しています。一方、どちらが発案者だったかについては定説がないと整理されています。

3つの説を比較すると、現存する記録から最も具体的に確認できるのは、1824年の『江戸買物独案内』における春木屋の「丑ノ日元祖」という表示です。しかし、それも習慣の最初の発案者を確定する証拠ではありません。

【江戸時代のうなぎ食文化】土用の丑の日以前から人気だった?

土用の丑の日の由来を正しく理解するには、江戸時代のうなぎの食文化そのものにも目を向ける必要があります。

うなぎは、平賀源内が宣伝を考案したとされる時期に突然登場した食べ物ではありません。日本では古くから食べられており、夏の滋養食としての認識にも長い歴史があります。

万葉集にも登場する夏のうなぎ

うなぎと夏の健康を結び付ける考え方は、江戸時代よりはるか以前から見られます。

奈良県立万葉文化館の「万葉百科」には、『万葉集』巻16・3853番歌として、大伴家持の歌が収録されています。

石麻呂に我物申す夏痩せに良しといふものそ鰻捕り喫せ

現代語にすると、「石麻呂に申し上げたい。夏痩せによいというものだから、うなぎを捕って召し上がりなさい」という意味です。

この歌は、痩せていた吉田連老(石麻呂)を題材にした戯笑歌の一つです。友人の体格をからかいながら、うなぎを食べるよう勧めています。

ここから分かるのは、奈良時代にはすでに、うなぎが夏痩せに役立つ食べ物として認識されていたことです。

ただし、この歌に土用の丑の日という言葉や、特定の日にうなぎを食べる習慣が登場するわけではありません。夏の滋養食としての歴史と、土用の丑の日という年中行事の成立は別々に考える必要があります。

江戸では蒲焼きが名物料理として発展

国立国会図書館の電子展示「本の万華鏡」では、江戸時代の魚食文化と、うなぎの蒲焼きが紹介されています。

同展示によると、江戸の料理書『料理塩梅集』の寛文8年(1668年)の記述には、すでにうなぎの蒲焼きが登場しています。

その後、江戸周辺でとれたうなぎは「江戸前」として評価され、ほかの地域から運ばれてきた「旅鰻」と区別されるようになりました。

安永4年(1775年)刊行の方言辞典『物類称呼』にも、浅草川や深川周辺でとれたうなぎを江戸前と呼び、賞味していたことが記されています。

つまり、平賀源内が活躍した18世紀後半には、江戸でうなぎの蒲焼きがすでに親しまれ、地域の名物として発展していたのです。

うなぎは庶民の食べ物であり、名店の高級料理でもあった

江戸のうなぎ文化には、現在の飲食業界にも通じる二つの側面がありました。

一つは、棒手振(ぼてふり)と呼ばれる行商人や露店による販売です。もう一つは、質の高いうなぎを提供する専門店や料理屋です。

当時のうなぎは、手軽に購入できる蒲焼きとして流通する一方、店によっては高級料理として扱われていました。

nippon.comが紹介する江戸時代後期の風俗考証書『守貞謾稿』には、鰻飯、現在のうな丼に当たる料理の記述があります。鰻飯には複数のうなぎの切り身を重ねたものもあり、当時の食文化の豊かさがうかがえます。

こうした食文化がすでに存在していたからこそ、特定の日にうなぎを食べる習慣が広がる土台も整っていました。

土用の丑の日の定着を、ある一人の宣伝だけで説明するよりも、江戸の外食文化、うなぎの流通、滋養食としての認識、商店の販売戦略が重なった結果として捉える方が、歴史的な実態に近いと考えられます。

【土用の丑の日の歴史と由来】なぜ「う」の付く食べ物を食べるのか?

土用の丑の日という言葉には、暦の考え方と昔からの民間伝承が関係しています。

そもそも「土用」と「丑の日」とは?

土用とは、立春・立夏・立秋・立冬という四季の節目の前に設けられた、およそ18日間の期間です。

これは五行思想に由来する暦の考え方で、春・夏・秋・冬のそれぞれに対応する木・火・金・水に対し、土を季節の変わり目に配したものです。

一方、丑の日は十二支の丑に当たる日を指します。十二支は日付にも順番に割り当てられるため、土用の期間中に丑の日が巡ってくることがあります。

土用は年4回ありますが、現在、一般的に「土用の丑の日」と言う場合は、夏の土用の丑の日を指すことがほとんどです。

国立天文台の暦計算室によると、土用は四季それぞれの立春・立夏・立秋・立冬の前約18日間とされています。

「丑の日にうの付く食べ物」という言い伝え

平賀源内説の背景としてよく挙げられるのが、丑の日に「う」の付く食べ物を食べると夏負けしないという民間伝承です。

代表的な食べ物には、次のようなものがあります。

  • うなぎ:滋養のある魚として古くから食べられてきた。
  • 瓜:夏に旬を迎える食材で、水分を含む。
  • 梅干し:昔から保存食として親しまれてきた食品。
  • うどん:食べやすく、夏場の食事にも取り入れやすい。

これらは、土用の丑の日に食べるものとして語られる代表例です。

ただし、「う」の付く食べ物を食べる習慣と、うなぎを食べる習慣がいつ、どのような順序で結び付いたのかについては、明確な成立過程が確定しているわけではありません。

うなぎだけが唯一の正解というわけでもなく、瓜や梅干しなどを食べることも、季節の変わり目を健やかに過ごすための食文化として理解できます。

2026年の土用の丑の日はいつ?

2026年の国立天文台の暦要項によると、夏の土用入りは7月20日、立秋は8月7日です。この期間に当たる丑の日は、7月26日(日)です。

土用の期間に丑の日が2回ある年は、最初の日を「一の丑」、2回目を「二の丑」と呼びます。2026年の夏は7月26日の一の丑のみです。

なお、2026年の夏の土用はすでに過ぎていますが、土用の丑の日は毎年同じ日付になるわけではありません。十二支の日付と立秋などの暦の関係によって変わります。

2026年の具体的な日付を確認するときは、国立天文台の暦要項を基準にすると、土用の期間と季節の節目を正確に把握できます。

【プロの結論】平賀源内とうなぎの逸話から読み解く本当の歴史

ここまでの史料を整理すると、平賀源内とうなぎの関係について、確実性の高い事実と後世の伝承を分けて理解することができます。

史料から分かること、分からないこと

最初に、江戸時代に土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が存在していたことは、複数の記録から確認できます。

『明和誌』は、安永・天明期に習慣が始まったと伝えています。加えて、1824年の『江戸買物独案内』では、春木屋が「丑ノ日元祖」を名乗っていました。

これらは、土用の丑の日とうなぎの結び付きが江戸時代に成立し、商業的にも認識されていたことを示しています。

一方、平賀源内が特定のうなぎ屋に看板を勧めたことや、その店が大繁盛したことを直接証明する史料は、現在知られる範囲では明確ではありません。

逸話を見極めるための3つの判断基準

歴史上の有名なエピソードを調べる際には、次の3点を意識すると、伝承と史実を区別しやすくなります。

1. 出典とされる資料に実際に何が書かれているか。

『明和誌』のように具体的な文献が挙げられている場合でも、書名だけで判断せず、該当箇所の本文を確認することが大切です。今回のケースでは、風習の成立時期についての記録と、源内の宣伝エピソードは一致していません。

2. 出来事と記録された時期が近いか。

当時の商店案内や日記など、出来事に近い時期に作成された資料は、後世の逸話よりも具体的な状況を知る手掛かりになります。『江戸買物独案内』の「丑ノ日元祖」という表示は、その好例です。

3. 複数の説が混同されていないか。

平賀源内、春木屋善兵衛、大田南畝の説は、それぞれ異なる人物や商売上のエピソードに基づいています。これらを一つの確定した歴史としてまとめてしまうと、何が記録され、何が後世の伝承なのかが分からなくなります。

平賀源内説が現在まで語り継がれる理由

源内説が長く親しまれてきた理由には、物語としての分かりやすさがあります。

夏場に売れないうなぎを、短い宣伝文句によって売れる商品に変えたという話は、現代のマーケティングにも通じます。人々が知っている暦の習慣と食べ物の言い伝えを結び付け、新しい購買理由を生み出したという構図です。

また、平賀源内が実際に多方面で活動し、発明や商業にも関心を持っていた人物だったことも、逸話の説得力を高めています。

ただし、源内説が史料によって確定していないからといって、逸話の文化的価値まで失われるわけではありません。史実としての確実性と、江戸の商業文化を象徴する物語としての価値は、別々に評価できます。

土用の丑の日は、単にうなぎを食べるだけの行事ではありません。古代から続く滋養食の認識、江戸の蒲焼き文化、季節の暦、商人の工夫が結び付いて形成された日本の食文化です。

平賀源内とうなぎに関するよくある質問(FAQ)

Q1:平賀源内が土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を作ったのは本当ですか?
A1:平賀源内がうなぎ屋に宣伝を助言したという有名な逸話はありますが、発案者だったと確定できる同時代の史料は確認されていません。『明和誌』には安永・天明期から習慣が始まったという記録がありますが、源内の名前や看板の話は登場しません。

Q2:『明和誌』には「本日土用丑の日」と書かれているのですか?
A2:いいえ。『明和誌』の該当箇所には、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が安永・天明の頃から始まったという趣旨の記述がありますが、「本日土用丑の日」という看板の文言や平賀源内の宣伝エピソードは記されていません。

Q3:春木屋善兵衛は本当に土用の丑の日の元祖なのですか?
A3:1824年刊行の『江戸買物独案内』には、春木屋が「丑ノ日元祖」として掲載されています。ただし、これは店が元祖を名乗っていたことを示す記録であり、子・丑・寅の3日に焼いたうなぎを保存したという逸話や、習慣の最初の発案者だったことまで証明するものではありません。

まとめ:平賀源内とうなぎの関係は伝承と史実を分けて理解しよう

平賀源内とうなぎの関係は、土用の丑の日の由来を語るうえで欠かせない有名な逸話です。しかし、青山白峰の『明和誌』を確認すると、記されているのは安永・天明期からうなぎを食べる習慣が始まったという内容であり、源内が看板を考案したという話ではありません。

一方、1824年刊行の『江戸買物独案内』には春木屋善兵衛が「丑ノ日元祖」として掲載され、大田蜀山人による宣伝説も伝わっています。いずれも土用の丑の日とうなぎが江戸の商業文化と深く結び付いていたことを考える材料になります。

また、うなぎを夏の滋養食として食べる考え方は『万葉集』の時代にまでさかのぼり、江戸では蒲焼きが名物料理として発展していました。

最も妥当な理解は、平賀源内説を歴史的に有名な伝承として受け止めつつ、土用の丑の日の習慣そのものは江戸時代の食文化と商業活動の中で広まったものとして捉えることです。

発案者を一人に決めることよりも、古代から続く食の知恵が江戸の町で年中行事へと育っていった過程に目を向けると、土用の丑の日という習慣の奥深さが見えてきます。

主な史料・参考資料: 国立国会図書館「本の万華鏡」「江戸時代の日蘭交流」、国立国会図書館所蔵資料を紹介するジャパンサーチ、国立天文台「令和8年暦要項」、奈良県立万葉文化館「万葉百科」、岡山県立図書館レファレンス協同データベース、nippon.comの江戸前鰻に関する歴史解説。

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小野寺 拓海

アニメ誌編集を経て Web メディアへ。放送・配信の日程は作品公式サイトと各配信サービスの告知で確認し、ガジェットの仕様はメーカーの公式スペック表を引用します。

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