徳川慶喜の写真を調べると、幕末の若々しい将軍姿から、明治時代の洋装、さらに晩年の落ち着いた表情まで、時代によって大きく異なる肖像が見つかります。なかでも注目されるのが、慶応3年(1867年)3月に英国人F・W・サットンが撮影した写真です。徳川ミュージアムには、撮影日や撮影状況、写真の裏面に記された文字まで確認できる貴重な資料が収蔵されています。
実は、徳川慶喜の写真は一種類ではありません。国立国会図書館、東京都写真美術館、江戸東京博物館、静岡市歴史博物館などにも関連資料が残されており、1866年から1888年、さらには72歳だった1908年の姿まで追うことができます。2026年11月時点で確認できる公的な所蔵記録をもとに、撮影者、年代、服装の違い、本物を見分けるポイントを整理します。
【まず全体像】徳川慶喜の写真一覧!若い頃から晩年まで何が残されている?

徳川慶喜は、1837年10月28日に生まれ、1913年11月22日に亡くなった江戸幕府第15代将軍です。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」では、将軍としての経歴だけでなく、複数の肖像画像も公開されています。
慶喜の写真が興味深いのは、単に歴史上の有名人物を写したものではないからです。幕末の政治的な立場を示す肖像から、明治の私人としての生活、写真愛好家としての活動まで、人生の転換点が視覚的に残されています。
徳川慶喜の写真は大きく3つの時代に分けられる1つ目は1866~1867年の幕末期。将軍就任前後の慶喜を写した写真で、衣冠、羽織袴、洋装、軍服など、さまざまな服装が確認されています。若い頃の顔立ちや当時の将軍としての装いを知るうえで、最も重要な資料群です。
2つ目は明治初期から中期。大政奉還後、政治の第一線から退いた慶喜の姿が残されています。1888年には徳川家達と並んだ写真も撮影されました。幕府の将軍と、その後に徳川宗家を継いだ人物が同じ写真に収まっている点が特徴です。
3つ目は明治後期から晩年。慶喜自身が写真撮影に熱中するようになり、人物写真だけでなく、風景や東京の街並みを写した作品も数多く残しました。1908年、72歳の慶喜が写る集合写真も知られています。
つまり、検索で見かける徳川慶喜の写真には、本人を撮影した肖像写真と、本人が撮影した写真の両方があります。この2種類を区別することが、資料を正しく理解する第一歩です。
【1867年の決定的資料】F・W・サットンが撮影した徳川慶喜の写真とは?
徳川慶喜の肖像写真を語るうえで欠かせないのが、慶応3年(1867年)3月に撮影された写真です。
撮影者は、英国軍艦サーペント号の機関長を務めていたサットン大佐。写真の裏面には、F.W.Suttonの名前と大阪で1867年に撮影したことを示す英文が記されています。
撮影日は1867年3月27日と28日徳川ミュージアムの収蔵品データベースによると、慶喜は1867年3月25日に兵庫開港を決意し、英・仏・米・蘭の公使にその意向を伝えました。
その後、3月27日に英国公使ハリー・パークスらと会見しています。この会見後、サットンが慶喜を撮影しました。さらに翌28日には、英国公使館付歩兵護衛隊である第9連隊の分遣隊を閲兵する慶喜の姿も撮影されています。
徳川ミュージアムの資料記録には、この2枚の写真について次のような特徴が記されています。
- 撮影者:サットン大佐
- 撮影場所:大阪
- 撮影時期:慶応3年3月27日・28日
- 写真の技法:鶏卵紙印画
- 彩色:岩絵具による彩色
- 写真の裏面:撮影者名と撮影地・年代を示す英文の書き込み
特に重要なのは、写真の裏側に記された「Photo (d) by F.W.Sutton C.E.R.N./ at Oosaka 1867」という文字です。撮影者と撮影地、年代を結びつける具体的な物証として注目できます。
英国でも紹介された慶喜の肖像この撮影に関連する出来事は、日本国内だけにとどまりませんでした。
徳川ミュージアムの解説によると、英国公使との会見の様子は英国にも伝えられ、1867年8月10日号の新聞・雑誌「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に口絵入りで掲載されました。
幕末の日本で政権の行方を左右していた慶喜の姿が、海外の読者にも伝えられていたことになります。写真は単なる記念品ではなく、当時の国際関係や政治的な存在感を伝える媒体でもあったのです。
1867年3月29日撮影とされる別の写真にも注目もう一つ押さえておきたいのが、茨城県立歴史館が公開した一橋徳川家写真資料の出陳資料一覧です。
同館の2024年の開館50周年記念特別展の資料一覧には、「徳川慶喜肖像写真(羽織袴姿)」が掲載されています。年代は慶応3年(1867年)3月29日、撮影者はF・W・サットンと記録されています。
ここで注意したいのは、徳川ミュージアムの3月27日・28日の2枚と、茨城県立歴史館の資料一覧に記された3月29日の羽織袴姿を、安易に同一の写真として扱わないことです。それぞれ異なる資料記録として整理する必要があります。
【若い頃と晩年を比較】徳川慶喜の写真・服装・年代別の変化
徳川慶喜の写真を見ると、服装の変化が非常に印象的です。幕末の将軍としての正装から西洋式の軍服、そして明治時代の公爵としての装いまで、時代ごとに異なる姿が残されています。
茨城県立歴史館の一橋徳川家写真資料の出陳一覧には、慶喜の肖像写真として、衣冠佩刀姿、衣冠姿、洋単装陣羽織姿、洋服着帽姿、軍服姿、軍服騎馬姿などが記録されています。
年代別・写真別の比較一覧| 年代 | 写真・人物 | 撮影者・資料上の特徴 |
|---|---|---|
| 1866年9月 | 衣冠佩刀姿 | 一橋徳川家写真資料。国重要文化財の資料として掲載 |
| 1866~1867年 | 衣冠姿・洋服着帽姿 | 幕末期の複数の肖像写真。洋装と伝統的装束の比較ができる |
| 1866~1867年 | 洋単装陣羽織姿・軍服姿 | 一橋徳川家写真資料に記録された肖像 |
| 1867年 | 軍服騎馬姿 | 将軍としての軍事的な立場を示す肖像 |
| 1867年3月27日・28日 | サットン撮影の肖像 | 徳川ミュージアム所蔵。鶏卵紙印画・岩絵具彩色 |
| 1867年3月29日 | 羽織袴姿 | F・W・サットン撮影。一橋徳川家写真資料の記録 |
| 1888年 | 徳川慶喜・家達写真 | 静岡市歴史博物館所蔵。家達の静岡訪問時の写真 |
| 1893年以降 | 慶喜自身が撮影した写真 | 静岡時代後半から東京時代にかけて写真撮影に熱中 |
| 1908年 | 徳川慶喜・昭武らの集合写真 | 戸定歴史館が紹介。慶喜72歳の頃の写真 |
1866~1867年の慶喜は、20代後半の若い将軍でした。1837年生まれのため、1867年3月のサットン撮影時には29歳です。
この時期の写真では、衣冠や佩刀を伴う伝統的な姿だけでなく、洋服や軍服を着用した姿も確認できます。
服装の違いは、単なるファッションの違いではありません。幕府の伝統的な権威を示す装いと、西洋列強との外交や軍制改革を背景にした洋装では、写真が伝える政治的な意味合いも異なります。
そのため、1867年の慶喜の写真を比較するときは、顔立ちだけでなく、帽子、衣冠、佩刀、陣羽織、軍服などにも注目すると、撮影時の立場や状況を読み解きやすくなります。
晩年の写真は若い頃と何が違う?明治時代の慶喜は、政治の第一線から退き、静岡で長い年月を過ごしました。国立国会図書館の人物解説によれば、1869年に謹慎を解かれた後、1897年に東京へ移っています。
1888年には、徳川慶喜と徳川家達が並んで写った写真が撮影されました。静岡市歴史博物館の所蔵資料データベースによると、この写真は家達が静岡を訪れた際に撮影され、旧幕臣たちに配られたものとされています。
家達は1868年に慶喜の後を継いで徳川宗家を継承した人物です。したがって、この写真は単なる二人の記念写真ではなく、明治維新後の徳川家と旧幕臣たちのつながりを伝える資料でもあります。
加えて、松戸市の戸定歴史館が紹介する資料には、1908年、72歳の慶喜が写る徳川昭武らとの集合写真があります。同館の解説では、同年に慶喜が勲一等旭日大綬章を受けたことを記念して撮影された可能性が示されています。
若い頃の威厳ある将軍の姿と比べると、晩年の写真は、政治的な役割を終えた一人の人物としての人生を感じさせます。
【どこで見られる?】徳川慶喜の写真を所蔵する博物館・図書館5選
徳川慶喜の写真を調べる場合、画像検索だけでなく、所蔵機関の収蔵品データベースを確認する方法がおすすめです。同じ人物の肖像でも、所蔵館によって写真の年代、材質、撮影者、資料番号などの情報が異なります。
1.徳川ミュージアム|サットン撮影の肖像写真最初に確認したいのが、茨城県水戸市にある徳川ミュージアムです。
収蔵品データベースには「徳川慶喜公肖像写真」が登録され、登録番号は00004です。
解説には、1867年3月27日の英国公使との会見後に撮影された写真と、翌日の閲兵時の写真について説明があります。裏面の英文、鶏卵紙の使用、岩絵具による彩色など、資料の特徴も記録されています。
撮影者を知りたい人、1867年の写真が本物かどうかを調べたい人にとって、最も重要な確認先の一つです。
2.国立国会図書館|近代日本人の肖像国立国会図書館の「近代日本人の肖像」では、徳川慶喜の人物解説と肖像画像を確認できます。
掲載されている画像は3点です。ただし、ページ上では人物の肖像資料として紹介されており、3点すべてを同一の撮影者による写真と判断することはできません。
若い頃の姿と後年の肖像を見比べる入口として便利ですが、個々の画像の制作年代や写真技法については、別の所蔵記録と照合する必要があります。
3.東京都写真美術館|作者不詳の徳川慶喜像東京都写真美術館の収蔵品検索には、「(徳川慶喜像)」という資料が登録されています。
この作品のデータは次のとおりです。
- 作品名:(徳川慶喜像)
- 作者:作家不詳
- 制作年:1868~1877年
- 技法:鶏卵紙
- 寸法:縦88×横53mm
- 作品番号:10107450
注目したいのは、制作年が1868~1877年と幅を持って記録され、撮影者が特定されていない点です。
この資料は、サットン撮影と明記された徳川ミュージアムの写真とは別の記録として扱う必要があります。撮影者が分からないからといって偽物というわけではなく、作者情報が残っていない古写真も歴史資料として収蔵されています。
4.江戸東京博物館|複数の徳川慶喜肖像江戸東京博物館の収蔵品情報は、ToMuCo(Tokyo Museum Collection)で確認できます。
同館には「肖像 徳川慶喜」という写真プリントがあり、資料番号は99650408、寸法は10.1×6.2cmです。
また、「徳川慶喜肖像」という別の資料も登録されています。こちらは資料番号05650464で、年代は慶応3年(1867年)、寸法は10.0×6.2cmです。川村清雄関係資料に属しています。
加えて、徳川慶喜肖像のガラス原版として湿板写真の資料も登録されています。
これらの資料は、同じ人物を写した写真でも、プリントなのか原版なのか、また制作年代がどのように記録されているのかを比較するうえで興味深い存在です。
5.静岡市歴史博物館|徳川慶喜・家達写真静岡市歴史博物館には、明治21年(1888年)の「徳川慶喜・家達写真」が所蔵されています。
この写真には、慶喜と徳川家達の二人が並んで写っています。家達が静岡を訪問した際に撮影され、旧幕臣たちに配られたものとされています。
2025年に開催された同館の企画展「明治維新と静岡 徳川慶喜、家達と旧幕臣たち」でも関連資料が紹介されました。2026年に写真の背景を調べる際にも、静岡市歴史博物館の収蔵資料データベースは有用な情報源です。
なお、同館の資料は実物資料として登録されていますが、画像掲載には特別閲覧などの手続きが必要とされています。
【意外な一面】徳川慶喜は写真を撮られる側から撮る側へ変わった
徳川慶喜の写真を調べていると、もう一つ見逃せない事実に出会います。それは、慶喜自身が優れた写真愛好家だったことです。
若い頃の慶喜は、将軍や政治的指導者として写真に写される側でした。しかし、明治時代に入ると、自らカメラを持ち、風景や建物、人々を撮影するようになります。
明治26年頃から本格的に写真撮影へ松戸市の戸定歴史館が公開する解説によると、慶喜は明治26年(1893年)頃から自らカメラを手に取り、連日のように写真撮影に打ち込むようになりました。
静岡を離れて1897年に東京へ移住した後も、その活動は続きました。
撮影対象は肖像写真だけではありません。静岡の風景や神社、鉄道、東京の街並みなど、幅広い対象が記録されています。
茨城県立歴史館の一橋徳川家写真資料の一覧にも、慶喜が撮影した作品として、次のような写真が記録されています。
- 安倍川鉄橋上リ列車進行中之図
- 三保神社鳥居前
- 清水湊橋ヨリ港口ヲ望ム之景
- 静岡浅間神社大拝殿
- 臨済寺
- 静岡猫ハン
いずれも明治20年代後半頃の作品として掲載されています。
写真家としての慶喜が残したもの松戸市の戸定歴史館は、慶喜が残した写真について、数百枚にのぼると紹介しています。構図を意識した写真やクローズアップを取り入れた作品、江戸から東京へ変わる都市の風景を捉えたスナップ写真など、その内容は多彩です。
また、同館の企画展記録には、慶喜が撮影したオリジナルプリントや、1907年の東京勧業博覧会を写した写真も紹介されています。
この事実は、慶喜の写真を理解するうえで重要です。彼は単に歴史上の人物として記録された存在ではありません。写真という新しい技術を自分の趣味として取り入れ、時代の変化を自らの視点で残した人物でもありました。
政治の表舞台から退いた後も、カメラを通して社会や風景を見つめ続けていたことが、現在まで伝わる写真資料から読み取れます。
【プロの結論】徳川慶喜の写真は本物?偽物・複製を見分ける6つのポイント
インターネットで徳川慶喜の写真を探すと、同じ肖像が異なる色合いや画質で掲載されていることがあります。古写真は複製やデジタル加工が容易なため、画像だけで本物かどうかを判断するのは困難です。
重要なのは、写真の見た目だけではなく、資料としての来歴や技法を確認することです。
ポイント1:所蔵館と資料番号を確認する最初に見るべきなのは、博物館や図書館の正式な収蔵記録です。
徳川ミュージアムの登録番号00004や、東京都写真美術館の作品番号10107450のように、資料番号が明確に付与されていれば、対象となる資料を特定しやすくなります。
ただし、資料番号が記載された画像だからといって、手元にあるプリント自体が原本だと証明されるわけではありません。原資料と複製画像は区別してください。
ポイント2:写真の裏面にある撮影者の記載を見るサットン撮影の写真で特に重要なのが、裏面に記された英文です。
「F.W.Sutton」という名前や「at Oosaka 1867」という記載は、撮影者・撮影地・年代を照合する手掛かりになります。
表面の顔だけでなく、裏面の記録まで確認できることは、資料の信頼性を検討するうえで大きな意味を持ちます。
ポイント3:写真の材質と技法を確認する徳川ミュージアムの1867年の写真は、鶏卵紙印画に岩絵具で彩色されたものです。
鶏卵紙は、卵白を利用した19世紀の代表的な写真印画技法です。写真に色が付いていても、それだけで現代のカラー加工や偽物と判断することはできません。
当時の写真には、印画後に顔料などを使って手作業で彩色したものがあります。写真そのものの技法と、後から加えられた彩色を区別することが大切です。
ポイント4:撮影年代と慶喜の年齢が一致するか徳川慶喜は1837年生まれです。そのため、1867年3月の写真であれば29歳、1888年の写真であれば50歳、1908年の写真であれば72歳となります。
写真の人物の年齢や服装が、資料に記録された年代と大きく食い違っていないか確認してください。
ただし、顔つきや年齢の印象だけで年代を決めることはできません。あくまでも補助的な確認材料です。
ポイント5:他の所蔵資料と照合する徳川ミュージアム、国立国会図書館、東京都写真美術館、江戸東京博物館などの資料を比較すると、撮影年代や技法、撮影者の記録が異なることが分かります。
複数の機関に関連資料があるからこそ、同じ肖像の別刷りなのか、異なる撮影機会の写真なのかを慎重に見極められます。
ポイント6:原本・複製・転載画像を区別する博物館のデータベースに掲載されている画像は、収蔵資料を閲覧するためのデジタル画像です。画面上で見られる画像と、博物館が保管している原資料は同じものではありません。
また、古写真を後年に複製したプリントや、書籍からスキャンした画像も存在します。歴史的に正しい写真を掲載していても、掲載された画像自体が1867年当時の原本とは限りません。
本物の古写真を購入したい場合や、研究資料として利用したい場合は、所蔵機関の記録、原本の状態、来歴、専門家による鑑定情報を確認することが必要です。
【プロの結論】徳川慶喜の写真の真正性を判断する際、最も信頼できるのは、顔の似ている・似ていないという印象ではありません。撮影者の署名、写真の材質、年代、資料番号、所蔵履歴という複数の証拠が一致しているかどうかです。特にサットン撮影の写真は、裏面の記載と徳川ミュージアムの収蔵記録を照合できる点が大きな特徴です。
【よくある疑問を解決】徳川慶喜の写真に関するFAQ
Q1:徳川慶喜の若い頃の写真は何年に撮影されたものですか?
A1:代表的なものは1866~1867年の幕末期の写真です。特に1867年3月には英国人F・W・サットンによる撮影が行われました。当時の慶喜は29歳で、衣冠姿や羽織袴姿などの肖像が残されています。
Q2:徳川慶喜の写真を撮影した人物は誰ですか?
A2:有名な1867年の肖像写真を撮影したのは、英国軍艦サーペント号の機関長だったサットン大佐です。ただし、徳川慶喜の写真すべてがサットン撮影というわけではありません。東京都写真美術館のように作者不詳として登録された資料もあります。
Q3:徳川慶喜の写真はどこで見られますか?
A3:徳川ミュージアム、国立国会図書館、東京都写真美術館、江戸東京博物館、静岡市歴史博物館などで関連資料を確認できます。所蔵品データベースで画像や資料情報を公開している機関もあります。
Q4:徳川慶喜の晩年の写真はありますか?
A4:あります。静岡市歴史博物館には1888年に徳川家達と並んで撮影された写真があり、松戸市の戸定歴史館では1908年、72歳の慶喜が写る集合写真が紹介されています。
Q5:徳川慶喜の写真は本人が撮影したものもありますか?
A5:あります。慶喜は明治26年頃から写真撮影に熱中し、静岡や東京の風景、建物などを撮影しました。松戸市の戸定歴史館や茨城県立歴史館の資料から、写真家としての活動を確認できます。
Q6:サットンが撮影した1867年の写真はカラー写真ですか?
A6:徳川ミュージアムの収蔵品記録では、鶏卵紙印画に岩絵具で彩色された写真と説明されています。現在のデジタルカラー写真とは異なり、当時の印画に手作業で彩色を施したものです。
まとめ:徳川慶喜の写真は幕末から明治への変化を伝える歴史資料
徳川慶喜の写真は、最後の将軍の容貌を確認できるだけでなく、幕末から明治へと移り変わる日本の政治や文化を理解するための貴重な資料です。
1867年のF・W・サットン撮影による肖像写真には、英国公使との会見や閲兵という歴史的背景があります。加えて、衣冠姿、洋装、軍服姿などの複数の肖像を比較すると、将軍としての慶喜が置かれていた時代状況も見えてきます。
明治時代に入ると、徳川家達との1888年の写真や、72歳の慶喜が写る1908年の集合写真が残されました。そして、慶喜自身もカメラを手に取り、風景や都市の変化を記録する写真家としての一面を見せています。
2026年に徳川慶喜の写真を調べるなら、まずは徳川ミュージアムのサットン撮影資料を確認し、国立国会図書館や東京都写真美術館、江戸東京博物館などの記録と比較するのが確実です。
写真の顔立ちだけに注目するのではなく、撮影年代、服装、撮影者、裏面の記載、材質、所蔵履歴まで確認すること。それが、徳川慶喜の本物の肖像写真と後年の複製を見分け、歴史的価値を正しく理解するための最も重要な判断基準です。
主な根拠資料(公的・所蔵機関の記録)