てるてる坊主の名前は、晴天を願う「照る」という言葉と、丸い頭をした坊主のような人形の姿を組み合わせたものと考えられています。
「てるてる」は太陽が照ることへの願い「てるてる」は、太陽が明るく照り、空が晴れることを意味する「照る」を繰り返した表現です。同じ言葉を重ねることで、晴れてほしいという願いを親しみやすく表しています。
漢字では「照る照る坊主」「照々坊主」などと表記されます。江戸時代の文献にも「照々」という表記が見られるため、現在の呼び名につながる言葉が、かなり古くから使われていたことがわかります。
なぜ「法師」ではなく「坊主」なのかもう一つの疑問が「坊主」という部分です。
一般的には、白い布や紙を丸めて作った人形の頭が、髪を剃った僧侶の頭に似ていることから名付けられたと考えられています。
ただし、民俗学者の宮田登は、天候を祈る祭りを担った旅の僧侶や修験者との関係にも注目しています。かつては、僧侶や山伏が天候に関する祈願に関わることがあり、その信仰が人形の形に残った可能性があるという見方です。
つまり、「坊主」は単なる見た目を表すだけでなく、昔の宗教的な天候祈願の記憶を反映している可能性もあります。ただし、僧侶の姿になった経緯を一つに特定できる決定的な資料はありません。
【中国の掃晴娘が起源?】伝説と日本への伝来説を検証

中国の風習と日本のてるてる坊主には、確かに似た特徴がある。
掃晴娘(サオチンニャン)とは何者なのか掃晴娘は、中国で晴天を祈る際に作られる女性の人形です。「掃晴娘」の「掃」は掃く、「晴」は晴天、「娘」は女性を意味します。
特徴的なのは、ほうきを持った女性の姿です。紙を切り抜いて作る剪紙(せんし)という伝統的な切り紙細工で表現され、赤や緑の衣装をまとった姿などが知られています。
ほうきを持っている理由は、雨雲を掃き払い、青空を呼び込むためと説明されています。軒先や木の枝などに吊るし、長雨が終わることを願う点も、日本のてるてる坊主によく似ています。
2007年に上海大学の学術誌に掲載された鄭艶の研究論文「試論『掃晴娘』」でも、掃晴娘は雨が続くときに晴天を願って吊るす民間の呪術的な人形として紹介されています。
掃晴娘の伝説と意味掃晴娘には、長雨に苦しむ村を救った少女の伝説があります。
伝説によると、ある村で激しい雨が何日も降り続き、大洪水の危機が迫っていました。村を救うため、少女が天に祈り、自分の命と引き換えに雨を止めたとされています。
少女の祈りが届くと雨がやみ、村には晴れた空が戻りました。この伝説から、少女の姿を紙人形にして吊るし、晴天を願う風習が生まれたという説明が伝えられています。
伝説の細部には異なる語り方もありますが、共通するのは、少女の人形に雨を払い、晴天を呼び込む役割が託されていることです。
掃晴娘は単なる飾りではなく、自然の力に人間の願いを届ける象徴的な存在だったと考えられます。
中国から日本に伝わったという説は本当か掃晴娘とてるてる坊主には、晴天を祈る目的や人形を吊るす習慣など、共通する点が複数あります。そのため、中国の風習が日本のてるてる坊主に影響を与えたという説は広く紹介されています。
しかし、ここで区別したいのが、両者の類似性と、実際に中国から日本へ風習が伝わったことを証明する史料は別だという点です。
てるてる坊主研究所の文献調査では、中国の掃晴娘について、現存する史料から確認できる古い事例として、13世紀末ごろの詩人・李俊民の作品が挙げられています。その作品は、後世の中国の文献『陔餘叢考』に引用されています。
一方、日本で掃晴娘が紹介されるようになったのは、江戸時代中期ごろとされています。1700年前後に成立したと推定される随筆『榊巷談苑』には、日本の「照法師」と中国の「掃晴娘」が比較されています。
興味深いのは、この時点ですでに日本側に「照法師」という晴天祈願の人形が存在していたことです。つまり、中国の人形が日本に伝わってから、初めて日本のてるてる坊主が生まれたと単純に説明することはできません。
また、「平安時代に中国から伝来した」という説明も見かけますが、平安時代の日本に掃晴娘が伝わっていたことを示す確実な史料は確認されていません。中国側の古い記録についても、平安時代まで遡る根拠は乏しいとする文献研究があります。
したがって、2026年時点での整理としては、掃晴娘は有力な関連風習であるものの、日本のてるてる坊主がそのまま伝来したものだと断定するには証拠が足りない、という位置づけが適切です。
【江戸時代のてるてる坊主】『嬉遊笑覧』と照々法師の記録
日本におけるてるてる坊主の歴史を調べるうえで、特に重要なのが江戸時代の文献と浮世絵です。
当時は現在のような簡素な白い人形だけではありません。白い着物を着せたり、文字を書き入れたり、お酒を供えたりするなど、現在とは異なる作り方や作法がありました。
『嬉遊笑覧』とはどんな書物なのか『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』は、江戸後期の国学者・喜多村信節(きたむらのぶよ)が著した風俗・文化に関する随筆です。1830年(天保元年)ごろに成立した全12巻と付録からなる書物で、当時の人々の生活習慣や娯楽、風俗を知るための重要な資料です。
この書物の巻八「方術」には「照々法師」に関する記述があります。
喜多村信節は、当時の俳諧の句を引用しながら、てるてる坊主に似た人形を吊るす習慣を紹介しています。加えて、中国では同様の人形を「掃晴娘」と呼ぶことにも触れています。
つまり、『嬉遊笑覧』は、日本の照々法師と中国の掃晴娘が、江戸時代の知識人によって比較されていたことを示す重要な資料です。
江戸時代の人形は「照々法師」と呼ばれていた現在の「てるてる坊主」という呼び名が一般化する前には、複数の呼び方がありました。
代表的なものが「照々法師(てりてりほうし)」です。そのほか「照法師」「てり雛」「てるてる」などの名称も文献に登場します。
江戸時代の俳諧集『武玉川』には、1750~1776年ごろの記録として「照々坊主」という表記が見られます。
また、専門的な文献調査では、江戸時代中期から後期にかけて、呼び名が多様に存在していたことが確認されています。現在の呼び方だけが昔から全国共通だったわけではありません。
歴史的な記録を年代別に整理参考:日本玩具博物館、国立国会図書館、国語辞典、てるてる坊主研究所の文献調査。『榊巷談苑』の成立年は著者の生没年からの推定。
歌川国芳の浮世絵に描かれた照々法師江戸時代のてるてる坊主の姿を具体的に知ることができる資料が、浮世絵師・歌川国芳の作品です。
嘉永5年(1852年)の「三海めでたいつゑ 十 天気にしたい」には、女性が人形にお猪口でお酒を飲ませようとする場面が描かれています。
人形は現代の白い布を丸めただけの形とは異なり、「てり、てり、てり」と墨書きした白い着物をまとっています。
これは、当時のてるてる坊主が単なる子どもの工作ではなく、晴天祈願のために作られた、一定の作法を持つ人形だったことを物語る貴重な図像資料です。
日本玩具博物館の学芸員・尾崎織女は、この浮世絵をもとに当時の照々法師を再現しています。和紙を縫い合わせたり、文字を書いたりする手間のかかる作り方からも、祈願に込められた思いが伝わってきます。
【日和坊主説の真相】西日本の風習と妖怪「日和坊」との関係
てるてる坊主の由来を調べると、もう一つ見逃せない名称があります。それが「日和坊主(ひよりぼうず)」です。
「日和」とは天候や空模様を意味する言葉です。特に、晴れた天候や晴天を願うことを「日和乞い」と呼びます。
日和坊主は西日本に伝わる晴天祈願の人形民俗学者の宮田登は、1980年に発表した論考「てるてる坊主と日和見」で、西日本における日和坊主の風習を紹介しています。
その代表的な例が、山口県萩市周辺の風習です。
晴天を願う日和乞いでは白い人形を軒先に吊るし、反対に雨乞いをするときには黒い人形を吊るしたとされています。
つまり、てるてる坊主に似た人形は、必ずしも晴天だけを願うものではありませんでした。地域によっては、色を変えることで天候に対する願いを使い分けていたのです。
また、1955年刊行の『綜合日本民俗語彙』には、次のような地域の事例が収録されています。
- 山口県萩市周辺:白い人形で日和乞い、黒い人形で雨乞い。
- 福岡県小倉:杓子に目・鼻・口を半分ずつ描いて吊るす。
- 長崎市:一般的な照々坊主を「ヒヨリボンサン」と呼ぶ。
この記録から、日和坊主という名称が西日本の一部地域で実際に使われていたことがわかります。
妖怪「日和坊」が起源という説もある日和坊主をめぐっては、江戸時代の妖怪「日和坊」との関係を指摘する説もあります。
日和坊は、江戸時代の絵師・鳥山石燕が描いた妖怪です。1779年刊行の『今昔画図続百鬼』に登場し、常陸国(現在の茨城県周辺)の深い山に住む存在として紹介されています。
特徴的なのは、晴れた日に姿を現し、雨の日には姿を隠すとされている点です。
日本玩具博物館は、この日和坊と晴天祈願の人形との関係にも注目しています。名前や坊主頭の姿、晴天との結び付きに共通点があるためです。
ただし、妖怪の日和坊が直接てるてる坊主の起源になったと証明されているわけではありません。あくまで民俗的な関連を考える一つの説です。
日和坊主とてるてる坊主は同じものなのか両者は晴天を願う人形という共通点がありますが、地域や時代によって名称や形、祈願の方法が異なります。
特に興味深いのは、近世の文献を整理した研究で、東日本では「てるてる坊主」系、西日本では「日和坊主」系の名称が目立つという傾向が指摘されていることです。
ただし、これは確認された文献資料の範囲での傾向です。西日本全域で必ず日和坊主と呼ばれていたわけではありません。
地域ごとに異なる名前や作り方が存在したことこそ、てるてる坊主の風習の特徴です。
【晴れた後に目を描く意味】江戸時代の作法と風習の変化
てるてる坊主について、意外と知られていないのが、昔は最初から顔を描かなかったという点です。
現在は目や口を描いてから吊るすことも一般的ですが、江戸時代の記録には、晴れた後に目を描き入れる作法が残っています。
なぜ最初は目を描かなかったのか『嬉遊笑覧』には、てるてる法師に関係する俳諧の句として、次の表現が登場します。
「てるてる法師月に目が明」
この句について、喜多村信節は、願いがかなったら墨で目を描き入れるという趣旨の説明をしています。
つまり、昔のてるてる坊主は、最初から目のある完成した人形ではありませんでした。晴天を願って顔のない状態で吊るし、願いが実現したときに目を描くという順番だったのです。
目を描く行為は感謝と願いの成就を表していた目を描き入れることには、願いを聞き届けてくれた人形への感謝という意味があったと考えられます。
祈願がかなう前の人形は、まだ役目を果たしていない状態です。晴れた後に目を入れることで、願いがかなったことを形にし、祈願を終えるという意味合いがありました。
現代の一般的な工作では、最初から顔を描くことも多くなっています。しかし、江戸時代の作法を再現したいなら、顔を描かずに吊るし、晴れた後に目を入れる方法が歴史的な習慣に近いといえます。
晴れた後にはお酒を供えることもあった江戸時代のてるてる坊主は、目を描くだけで終わりではありませんでした。
日本玩具博物館の資料によれば、願いがかなった後には目を描き入れ、神酒(みき)を飲ませて祀る習慣があったとされます。
歌川国芳の浮世絵に、女性が照々法師へお猪口で酒を飲ませようとする場面が描かれているのも、こうした風習を知る手がかりです。
一部の辞書や風俗資料では、役目を終えた人形を川に流す作法も紹介されています。ただし、地域や時代によって後始末の方法には違いがありました。
現代のてるてる坊主にも昔の作法を取り入れられる現在、てるてる坊主を作る場合に、必ず顔を描かずに吊るさなければならないという決まりはありません。
ただ、歴史的な風習を楽しむなら、次の手順がおすすめです。
1. 白い紙や布で丸い頭を作る。
2. 顔を描かずに軒先や窓辺に吊るす。
3. 晴れて願いがかなったら目を描く。
4. 人形に感謝して、適切に片付ける。
昔のように川へ流すことは、現代では環境への影響があるため避けるべきです。紙や布などの素材を分別し、自治体のルールに従って処分しましょう。
【てるてる坊主の風習と歴史的変遷】童謡が全国に広めた名前
江戸時代には、照々法師や日和坊主など、さまざまな名前が使われていました。では、なぜ現在は「てるてる坊主」という呼び名が広く定着しているのでしょうか。
その大きなきっかけの一つが、大正時代に発表された童謡です。
1921年に発表された童謡「てるてる坊主」童謡「てるてる坊主」は、1921年(大正10年)に発表されました。
作詞は浅原鏡村(本名・浅原六朗)、作曲は中山晋平です。
浅原鏡村は長野県出身の作家で、雑誌『少女の友』の編集部員として活動していました。同誌の1921年6月号に「てるてる坊主の歌」を発表したことが、日本童謡協会の資料に記録されています。
その後、中山晋平が現在知られる形に整え、1922年には自身の作曲集にも収録しました。
1933年の国語教科書への掲載が普及を後押しもう一つの重要な転換点が、1933年(昭和8年)の小学校国語教科書への登場です。
『小学国語読本』第2巻には、遠足を翌日に控えた太郎さんが、天気を心配しててるてる坊主を作り、木に吊るす場面が描かれています。
遠足という子どもに身近な行事を題材にしたことで、てるてる坊主は家庭だけでなく、学校教育の中でも親しまれる存在になりました。
日本玩具博物館は、1921年の童謡発表と1933年の教科書掲載が、さまざまな地域名を持っていた人形の呼び名を全国的に定着させた大きな要因だったと説明しています。
江戸時代から現代までに何が変わったのかてるてる坊主の歴史を振り返ると、単に呼び名が変わっただけではありません。
江戸時代には白い着物を着せた人形が作られ、文字を書き込み、晴れた後には目を描いて神酒を供えるなど、手の込んだ作法がありました。
その後、近代化とともに人形は簡素な形へと変わり、子どもが紙や布で簡単に作れるものとして定着していきます。
天気予報が普及した現在では、実際の天候を予測する手段というよりも、遠足や運動会などの晴天を願う文化的な習慣として親しまれています。
それでも、天候を自分の力では変えられない人間が、人形に願いを託すという基本的な意味は、江戸時代から現代まで受け継がれています。
【プロの結論】てるてる坊主の由来を正しく理解するための3つの判断基準
てるてる坊主の由来を調べると、中国伝来説、江戸時代の民間信仰説、日和坊主・日和坊との関連説など、さまざまな説明が見つかります。
それぞれの説を混同しないためには、次の3つの視点が大切です。
1. 中国伝来説は「類似」と「伝来の証拠」を分ける掃晴娘とてるてる坊主は、晴天を祈る人形という点でよく似ています。掃晴娘が日本の風習に影響を与えた可能性は十分に考えられます。
しかし、平安時代に伝来したという具体的な証拠は乏しく、両者が似ているからといって直接の起源と断定することはできません。
2. 江戸時代の記録は日本独自の発展を示している『榊巷談苑』や『嬉遊笑覧』、俳諧集『武玉川』、歌川国芳の浮世絵などは、日本で晴天祈願の人形が作られ、独自の呼び名や作法を持っていたことを示しています。
特に『嬉遊笑覧』は、中国の掃晴娘との比較だけでなく、目を描き入れる作法まで記録している点で重要です。
3. 日和坊主は地域の民俗文化として理解する日和坊主は、全国どこでも同じ名称で使われていたものではありません。山口県萩市や福岡県小倉、長崎市など、具体的な地域の記録を踏まえて理解する必要があります。
妖怪の日和坊との関係も興味深い説ですが、現段階では確定した起源ではなく、民俗的な関連を探る仮説として扱うのが適切です。
こうして見ると、てるてる坊主は中国の風習との関係だけでは語りきれない、日本の地域文化や信仰、子どもの遊びが重なり合って成立した存在です。
【てるてる坊主の由来】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:てるてる坊主の由来は中国の掃晴娘なのですか?
A1:中国の掃晴娘が影響を与えたという説が広く知られています。どちらも人形を吊るして晴天を願う風習ですが、直接伝来したことを証明する決定的な史料はありません。日本では江戸時代の記録が確認されています。
Q2:てるてる坊主は江戸時代には何と呼ばれていましたか?
A2:「照々法師」「照法師」「てり雛」「照々坊主」など、複数の呼び名がありました。『嬉遊笑覧』にも照々法師の記録があります。
Q3:てるてる坊主の目はいつ描くのが正しいのですか?
A3:江戸時代の風習にならうなら、最初は顔を描かずに吊るし、晴れて願いがかなった後に目を描きます。現在は最初から顔を描く家庭も多く、厳格な決まりはありません。
Q4:日和坊主とてるてる坊主は違うものですか?
A4:どちらも晴天を願う人形として知られています。日和坊主は西日本の一部地域で使われた名称で、地域によって形や作り方も異なりました。
Q5:てるてる坊主は雨乞いにも使われていたのですか?
A5:地域によっては使われていました。山口県萩市周辺では、晴天を願う場合に白い人形、雨を願う場合には黒い人形を吊るしたという記録があります。
まとめ:てるてる坊主の由来は中国伝来説だけでは説明できない
てるてる坊主の由来をたどると、中国の掃晴娘という女性の人形、江戸時代の照々法師、日和坊主、そして『嬉遊笑覧』に記された目を描く作法など、複数の歴史的な要素が浮かび上がります。
名前の「てるてる」は晴天を意味する「照る」の繰り返し、「坊主」は丸い頭をした人形の姿に由来すると考えられています。
中国の掃晴娘との関係は有力な説ですが、平安時代に伝来したという説明には確かな裏付けがありません。日本では遅くとも江戸時代に晴天祈願の人形が存在し、独自の呼び名や作法を発展させていました。
加えて、晴れた後に目を描き、神酒を供えるという習慣や、西日本の一部で見られた日和坊主の風習は、てるてる坊主が単なる子どもの遊びではなく、地域の信仰と結び付いた文化だったことを示しています。
1921年の童謡発表と1933年の国語教科書への掲載を経て、現在の呼び名が広く定着しました。
てるてる坊主の本当の魅力は、晴れを願うという素朴な気持ちが、時代や地域を超えて受け継がれてきたことにあります。次に雨の日にてるてる坊主を作るときは、その小さな白い人形に込められた江戸時代からの歴史にも思いを巡らせてみてください。