ホーム 芸能ニュース・ゴシップ 五箇条の御誓文とは?現代語訳・起草の経緯・五榜の掲示との違いを徹底解説

五箇条の御誓文とは?現代語訳・起草の経緯・五榜の掲示との違いを徹底解説

天海 修平 天海 修平 • 更新: • 公開: • 読了約 24 分
目次

五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)は、1868年4月6日(慶応4年3月14日)に明治天皇が発した、明治新政府の基本方針を示す歴史的な誓文です。明治維新によって新しい政治体制が動き始めるなか、国をどのような方向へ導くのかを五つの条文にまとめたもので、「公議世論の尊重」「身分を超えた協力」「旧来の悪習の打破」「世界の知識の導入」などが掲げられました。

しかし、その成立には一人の人物だけではなく、由利公正が作成した原案を福岡孝弟が修正し、さらに木戸孝允が重要な変更を加えるという複数の政治家の関与がありました。また、御誓文の翌日に発せられた五榜の掲示とは、対象者も内容も大きく異なります。2026年現在の歴史理解にもつながるよう、五つの条文の現代語訳から起草の舞台裏、公布の理由、歴史的意義まで詳しく解説します。

【基礎知識】五箇条の御誓文とは?1868年4月6日に明治天皇が発した新政府の基本方針

五箇条の御誓文

五箇条の御誓文は、明治維新によって誕生した新政府が、今後の国家運営の方向性を内外に示すために発した政治的な宣言です。

その背景には、江戸幕府の崩壊と王政復古、さらに戊辰戦争による国内の混乱がありました。

1867年10月、徳川慶喜が大政奉還を行い、同年12月には王政復古の大号令によって新政府が成立します。しかし、幕府に代わる政治体制ができたからといって、すぐに全国を統一的に統治できる状態になったわけではありません。

旧幕府勢力との戦争は続き、諸藩の利害も複雑に絡み合っていました。加えて、開国後の日本には欧米諸国との外交関係や国際社会への対応という課題もありました。

こうした状況で必要だったのが、新政府が共有する政治の基本原則です。

五箇条の御誓文の成立日と発布の場所

歴史上の重要日付

- 西暦:1868年4月6日
- 和暦:慶応4年3月14日(明治元年3月14日)
- 場所:京都御所・紫宸殿
- 発した人物:明治天皇
- 主な対象:公卿・諸侯をはじめとする新政府の関係者

当日は、明治天皇が公卿や諸侯、百官を集め、天地の神々に対して新しい国づくりの基本方針を誓いました。

明治神宮の解説によれば、式典では副総裁の三条実美が御誓文を御神前で奉読する様子が伝えられています。

つまり、五箇条の御誓文は、単なる行政上の通知ではありません。天皇自身が国家の基本方針を神前で誓約するという、政治的・儀礼的な意味を持つ出来事だったのです。

「五箇条の誓文」と「五箇条の御誓文」は違う?

資料によって「五箇条の誓文」「五箇条の御誓文」「五箇條御誓文」などの表記が見られます。

基本的には同じ歴史的文書を指しています。

「五箇条」は五つの項目、「御誓文」は天皇が誓った文章という意味です。歴史の教科書や一般的な解説では「五箇条の御誓文」という名称が広く使われています。

【完全解説】五箇条の御誓文の五つの条文と現代語訳・それぞれの意味

五箇条の御誓文を理解するには、原文を読むだけでなく、当時の政治状況を踏まえて各条文の意味を考える必要があります。

原文は明治時代初期の文語体で書かれているため、現在の日本語とは表現が異なります。

ここでは、原文と現代語訳、さらに歴史的な意味を一つずつ整理します。

第一条:広く会議を興し万機公論に決すべし

原文

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

現代語訳

広く人々の意見を聞くために会議を開き、国の重要な政治的問題は、偏った考えではなく、公正な議論に基づいて決定しなければならない。

意味とポイント

第一条は、五箇条の御誓文の中でも特に注目される条文です。

重要なのは「公議世論」という考え方です。

「万機」とは国政に関するあらゆる重要事項を意味します。「公論」とは、一部の権力者の都合だけで決めるのではなく、広く議論を行い、公正な意見に基づいて政治を進める姿勢を指します。

江戸幕府の政治体制が崩壊した直後の日本では、新政府の意思決定の仕組みを確立することが急務でした。

第一条には、政治を一部の人間の独断に任せず、議論を通じて国の方針を決めるという方向性が示されています。

ただし、これを現代の議会制民主主義や普通選挙の制度と同一視するのは正確ではありません。当時の政治参加は限られた政治的指導層を中心としており、すべての国民に選挙権や政治参加の権利を認めた条文ではありませんでした。

第二条:上下心を一にして盛に経綸を行ふべし

原文

一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

現代語訳

身分や立場の上下に関係なく、みんなが心を一つにして、積極的に国の政治や運営に取り組まなければならない。

意味とポイント

「経綸」とは、国の政治を計画し、秩序を整え、国家を運営していくことです。

江戸時代には、武士、町人、農民などの身分によって社会的な役割や立場が分かれていました。

しかし、新政府が目指す近代国家を建設するためには、旧来の身分的な枠組みだけに依存することはできません。

第二条は、立場の違いを超えて協力し、国づくりを進めることを求めています。

ただし、身分制度をこの条文だけで廃止したわけではありません。実際の制度改革は、その後の版籍奉還や廃藩置県、四民平等に向けた政策などを通じて段階的に進められました。

第三条:官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す

原文

一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

現代語訳

役人や武士だけでなく、一般の人々に至るまで、それぞれが自分の目標や志を実現できるようにし、人々が希望を失わずに生活できるようにしなければならない。

意味とポイント

第三条では、国家を構成する人々の意欲や生活に目が向けられています。

「官武」は官吏と武士を意味し、「庶民」は一般の人々を指します。

つまり、政治を担う役人や武士だけが国づくりに参加するのではなく、庶民も含めて、それぞれが自分の役割を果たし、志を実現できる社会を目指すという考え方です。

特に重要なのが「人心をして倦まざらしめん」という部分です。

これは、人々の気持ちが疲弊したり、希望を失ったりしないようにするという趣旨です。

新政府の成立によって社会の仕組みが大きく変わるなか、国民の意欲や協力を得ることが国家運営に不可欠だったことが読み取れます。

第四条:旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし

原文

一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

現代語訳

これまで続いてきた悪い習慣や不合理な慣習を改め、世界に通用する普遍的で正しい道理に基づいて政治や社会を運営しなければならない。

意味とポイント

第四条は、旧幕府時代から続く慣習を見直し、新しい社会秩序をつくる姿勢を示しています。

「陋習」とは、時代に合わなくなった悪い習慣や不合理な慣習のことです。

「天地の公道」は、特定の地域や権力者だけに通用する考え方ではなく、普遍的な正しい道理を意味します。

当時の日本は開国を経験し、欧米諸国との外交関係を築いている最中でした。

そのため、国内の古い慣習を見直すことだけでなく、国際社会で通用するルールや考え方を受け入れることも重要な課題でした。

なお、第四条は伝統文化をすべて否定するという意味ではありません。あくまで、改めるべき悪習を見直し、普遍的な道理に従うという方針です。

第五条:智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

原文

一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

現代語訳

世界中から優れた知識や技術を積極的に取り入れ、天皇を中心とする国家の基盤を大いに発展させなければならない。

意味とポイント

第五条は、国際的な知識や技術を積極的に学ぶことを掲げています。

当時の日本は、欧米諸国との間に軍事力、産業、科学技術、教育制度などの大きな差を抱えていました。

そのため、新政府にとって外国の知識を取り入れることは、国家の独立と発展を実現するための重要な課題でした。

「皇基」とは天皇を中心とする国家の基盤を意味します。

第五条は、外国の制度や技術を学びながら、日本の国家体制を強化するという明治新政府の基本姿勢を示しています。

単純に外国の文化を模倣するという意味ではなく、世界の知識を取り入れて日本の発展につなげようとする考え方です。

五つの条文を一覧で比較
条文 原文の中心部分 現代語での要点
第一条 広く会議を興し万機公論に決すべし 広く意見を聞き、議論で政治を決める
第二条 上下心を一にして盛に経綸を行ふべし 身分を超えて協力し、国を治める
第三条 官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ 誰もが志を実現できる社会を目指す
第四条 旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし 悪習を改め、普遍的な道理に従う
第五条 智識を世界に求め大に皇基を振起すべし 世界の知識を取り入れ、国を発展させる

この五つの条文は、それぞれ異なるテーマを扱っていますが、全体としては「政治のあり方」「国民の協力」「社会の改革」「国際的な知識の導入」という一貫した国家建設の方向性を示しています。

【成立の舞台裏】由利公正・福岡孝弟・木戸孝允は何をした?起草の経緯を時系列で解説

五箇条の御誓文は、由利公正、福岡孝弟、木戸孝允という三人の政治家が、それぞれ異なる段階で関わって成立しました。

特に重要なのは、最初の原案と最終的な御誓文では、政治方針だけでなく、その誓約の形式にも変更が加えられたことです。

由利公正が最初の原案を作成


(三岡八郎)

五箇条の御誓文の原案を作成した人物。福井藩出身で、新政府の参与として政治制度の構想に関わった。

最初の原案を作成したのは、福井藩出身の由利公正です。

由利は、政治を一部の権力者だけで決めるのではなく、議論を通じて国の方針を決める仕組みを重視していました。

その考え方を具体的に示した文書が「議事之体大意」です。

この文書は五箇条の御誓文の原案とされ、由利の本文に福岡孝弟が加筆・修正を行ったことが福井県文書館の所蔵資料解説に記されています。

福岡孝弟が由利案を修正


由利公正の原案を修正し、政治の基本方針としての条文を整えた人物。

次に関わったのが土佐藩出身の福岡孝弟です。

福岡は由利案に加筆・修正を施し、条文の内容や構成を整理しました。

この段階では、天皇や諸侯などが政治の基本方針について会盟し、盟約を結ぶという形式が構想されていました。

しかし、会盟という方式には異論があり、政治的な調整が必要になりました。

木戸孝允が重要な修正を加える


(桂小五郎)

福岡案をさらに修正し、天皇が群臣を率いて神前で国是を誓約する形式を提案した人物。

三人目の重要人物が木戸孝允です。

木戸は、国内に依然として鎖国・攘夷を支持する動きが残っていたことを懸念していました。

そのため、国の基本方針を明確に定め、天皇が群臣を率いて天地神明に誓い、その方針を天下に宣布することを提案しました。

宮内庁書陵部の木戸孝允文書展示目録によると、木戸は福岡案に対して具体的な修正を加えています。

特に注目されるのは、次の変更です。

- 「会盟式」を「会誓式」に変更。
- 「盟約」という表現を「誓」に変更。
- 徴士の期限に関する項目を削除。
- 「旧来ノ陋習ヲ破リ字内ノ通義ニ従フベシ」という新しい項目を追加。
- 条文の配列や構成を変更。

こうした修正によって、御誓文は単なる政治指導者間の盟約ではなく、天皇が国家の基本方針を神前で誓う形式へと変化しました。

木戸の建言と修正案は閣議で採用され、最終的な御誓文の成立につながりました。

三人の人物と関連史料の関係を整理
人物・史料 関係・役割 歴史的なポイント
由利公正(三岡八郎) 最初の原案を作成 「議事之体大意」を起草
福岡孝弟 由利案を修正 条文や会盟の構想を整理
木戸孝允 福岡案をさらに修正 天皇による神前誓約の形式を提案
議事之体大意 原案に関係する史料 公議を重視する政治構想を示す
五箇条の御誓文 最終的に発せられた文書 新政府の国家運営の基本方針

この成立過程を見ると、五箇条の御誓文は三人のうち誰か一人の作品として理解するよりも、政治思想、制度設計、国家としての宣言形式が段階的に統合された文書として捉える方が正確です。

【なぜ発布された?】公布の理由と五榜の掲示との決定的な違い

五箇条の御誓文が発せられた理由を理解するには、1868年当時の日本が抱えていた三つの課題に注目する必要があります。

理由1:新政府の政治方針を統一するため

大政奉還と王政復古によって江戸幕府の政治体制は終わりましたが、新政府の統治体制はまだ確立の途上でした。

薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩などの有力勢力が新政府に関与するなかで、政治の進め方について共通の原則を持つことが必要でした。

五箇条の御誓文は、異なる政治的背景を持つ指導者たちが共有する国家運営の基本方針を示す役割を果たしました。

理由2:攘夷思想の残存と国際関係への対応

開国後の日本には、外国との交流を進めるべきだという考え方と、外国勢力を排除すべきだという考え方が混在していました。

木戸孝允の建言にも、一部の士民に鎖国・攘夷論が残っていることへの懸念が示されています。

新政府にとって、国際社会との関係を安定させることは重要な課題でした。

第四条の「天地の公道」と第五条の「智識を世界に求め」という表現には、従来の考え方に固執せず、世界の知識や普遍的な原則を取り入れようとする方向性が表れています。

理由3:天皇を中心とする新しい国家体制を示すため

五箇条の御誓文は、明治天皇自身が天地神明に誓うという形式で発せられました。

これは、新政府の政治的な正統性を示し、国家の基本方針を広く共有するための重要な儀礼でもありました。

明治神宮の解説でも、御誓文と同時に国民への協力を求める宸翰(天皇の直筆文書)が布告されたことが紹介されています。

五箇条の御誓文と五榜の掲示は何が違う?

五箇条の御誓文と混同されやすいのが、1868年3月15日に発せられた「五榜の掲示」です。

両者は同じ時期に新政府が発したものですが、目的と内容は異なります。

比較項目 五箇条の御誓文 五榜の掲示
発布日 1868年4月6日 1868年4月7日
和暦 慶応4年3月14日 慶応4年3月15日
主な目的 新政府の政治の基本方針を示す 人々が守るべき具体的な規則を示す
主な対象 公卿・諸侯・百官などを中心とする国家全体 庶民一般
形式 天皇が神前で誓う政治的宣言 全国各地に掲げる高札
主な内容 公議、協力、改革、世界の知識の導入 道徳、徒党の禁止、キリスト教禁止など

五榜の掲示は、次の五つの札から構成されていました。

1. 第一札: 五倫の道徳を守ることなど、人としての基本的な規範。
2. 第二札: 徒党・強訴・逃散などの禁止。
3. 第三札: キリスト教や邪宗門の禁止。
4. 第四札: 万国公法を守り、外国人を殺傷しないこと。
5. 第五札: 許可なく本国から脱走することの禁止。

文化庁の文化遺産オンラインが紹介する太政官制札は、五榜の掲示の第四札に当たります。

同資料の解説では、御誓文が発せられた翌日に五榜の掲示が出され、各地に制札が掲げられたことが説明されています。

なぜ御誓文と五榜の掲示は内容が異なるのか

この違いは、新政府が二つの異なる課題に対応しようとしていたことを示しています。

五箇条の御誓文は、国家をどのような理念で運営するかを示すものです。

一方、五榜の掲示は、政権交代による社会の混乱を抑え、庶民の行動を具体的に統制するためのものでした。

ここで注目したいのは、御誓文が公議や改革を掲げる一方で、五榜の掲示には集団的な抗議活動やキリスト教を禁じる内容が含まれていたことです。

つまり、明治新政府は国家の近代化を目指す理念を掲げながら、社会秩序を維持するためには旧来の統制的な政策も継続していました。

この二面性は、明治維新を理解するうえで見落とせないポイントです。

【歴史的意義】五箇条の御誓文は日本の民主主義の原点なのか?

五箇条の御誓文の歴史的意義は、明治新政府が新しい国家を建設するための基本原則を明文化したことにあります。

特に第一条の「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、日本の政治史を考えるうえで重要な意味を持ちます。

第一条は民主主義を意味していたのか

第一条に示された公議世論の尊重は、後の日本の政治制度を考えるうえでも重要な理念です。

政治を一部の権力者の独断だけで決定せず、議論を通じて方針を定めるという考え方は、近代的な政治参加や議会制度にも通じる部分があります。

ただし、五箇条の御誓文そのものを民主主義憲法と位置づけることはできません。

理由は明確です。

- 国民による普通選挙を定めていない。
- 国会や議会の具体的な制度を規定していない。
- 国民の基本的人権を保障する法律ではない。
- 政治参加の具体的な方法や範囲を定めていない。

当時の新政府は、天皇を中心とする政治体制の確立を目指していました。

したがって、第一条は現代の民主主義と完全に同じものではなく、政治における公論や合議の尊重を掲げた基本方針として理解する必要があります。

近代国家建設に与えた影響

五箇条の御誓文は、明治維新後の国家建設における指導理念となりました。

特に、次のような政策の方向性と関連づけて理解できます。

- 政治制度の改革: 旧幕府時代の政治構造を改め、新しい中央政府の仕組みを構築する。
- 社会制度の改革: 身分や旧来の慣習に依存した社会構造を見直す。
- 国際化の推進: 外国の知識、科学技術、制度を積極的に取り入れる。
- 国家の統合: 藩ごとの政治的な利害を超えて、国家としての一体性を高める。

もちろん、これらの改革が御誓文の五つの条文だけによって実現したわけではありません。

版籍奉還、廃藩置県、学制、徴兵令など、さまざまな政策が進められるなかで、御誓文に示された理念が明治新政府の指導精神の一つとして位置づけられました。

1946年にも引用された五箇条の御誓文

五箇条の御誓文の歴史的な意味を考えるうえで、見逃せないのが昭和21年(1946年)1月1日の「新日本建設ニ関スル詔書」です。

この詔書では、昭和天皇が五箇条の御誓文に言及し、その精神に立ち返って新しい日本の建設に努める姿勢を示しました。

明治維新期に発せられた政治的宣言が、第二次世界大戦後の日本の再出発に際しても参照されたのです。

これは、五箇条の御誓文が単に明治初期の政治方針にとどまらず、後世の国家像を考える際にも象徴的な意味を持っていたことを示しています。

五箇条の御誓文を読むときに押さえたい三つの視点

歴史的な評価を行う際には、次の三つの視点が役立ちます。

1. 理念と実際の政治を区別する

公議世論を掲げたことと、実際にすべての国民が政治に参加できたことは別問題です。理念と制度の実態を混同しないことが重要です。

2. 近代化と伝統的な国家体制の両面を見る

世界の知識を取り入れる姿勢を示しながら、天皇を中心とする国家体制を強化する方針も掲げていました。近代化と国家統合は、同時に進められていたのです。

3. 五榜の掲示との対比から理解する

新政府は公議や改革を掲げる一方で、庶民には厳しい統制的な規則も示しました。両方の史料を読むことで、明治維新初期の政治の複雑さが見えてきます。

【よくある質問】五箇条の御誓文に関するFAQ

Q1:五箇条の御誓文はいつ発布されましたか?

A1:1868年4月6日です。和暦では慶応4年3月14日(明治元年3月14日)に当たり、京都御所の紫宸殿で明治天皇が天地神明に誓う形で発せられました。

Q2:五箇条の御誓文を作った人物は誰ですか?

A2:最初の原案を作成したのは由利公正(三岡八郎)です。その原案を福岡孝弟が修正し、さらに木戸孝允が重要な加筆・修正を行いました。三人が異なる段階で成立に関わっています。

Q3:五箇条の御誓文の第一条は何を意味しますか?

A3:「広く会議を興し万機公論に決すべし」という条文で、国の重要な政治的問題を一部の権力者の独断ではなく、広く議論し、公正な意見に基づいて決定するという意味です。ただし、現代の普通選挙や議会制民主主義を直接定めたものではありません。

Q4:五箇条の御誓文と五榜の掲示の違いは何ですか?

A4:五箇条の御誓文は新政府の政治の基本方針を示したもので、1868年4月6日に発せられました。一方、五榜の掲示は翌4月7日に出された五つの高札で、道徳やキリスト教の禁止、徒党の禁止など、庶民が守るべき規則を示しました。

Q5:五箇条の御誓文は明治天皇が自分で書いたのですか?

A5:起草者は由利公正であり、福岡孝弟と木戸孝允が修正に関わりました。明治天皇は最終的な御誓文を神前で誓う立場にあり、文案の作成者と発布・誓約する人物は区別して理解する必要があります。

Q6:五箇条の御誓文は日本国憲法の原型ですか?

A6:日本国憲法のように国家の統治機構や基本的人権を定めた法典ではありません。ただし、公議世論の尊重や政治における議論の重視という理念には、後世の政治思想にも通じる要素があります。

まとめ:五箇条の御誓文が明治維新に残したものとは

五箇条の御誓文は、1868年4月6日に明治天皇が発した、明治新政府の国家運営の基本方針を示す歴史的な宣言です。

五つの条文には、公議世論の尊重、身分を超えた協力、個人の志の実現、旧来の悪習の打破、世界の知識の導入という五つの重要な方向性が示されていました。

その成立には、由利公正による原案作成、福岡孝弟による修正、木戸孝允による政治的・儀礼的な形式の変更という段階的な過程がありました。

また、翌日に発せられた五榜の掲示と比較すると、明治新政府が国家の理想を示す一方で、社会秩序の維持には厳しい統制政策を採用していたことも分かります。

五箇条の御誓文を理解する際に大切なのは、単純に「日本の民主主義の始まり」と評価することでも、反対に古い政治体制の宣言として片づけることでもありません。

近代国家をつくろうとする改革の理念と、天皇を中心とする新しい国家体制の確立という二つの側面を同時に読み解くことです。

明治維新の出発点を理解するための重要な史料として、五箇条の御誓文は2026年の現在も、日本の政治史や近代史を考えるうえで欠かせない存在です。

同じカテゴリの記事

天海 修平

映画配給会社の広報を経て取材記者に。作品の公式サイトと配給発表、映画祭のプログラミングを公式発表として確認し、興行成績は興行通信社の数字のみを引用します。

おすすめの関連記事